唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (45) 第十 上下相縁門 (6)

2016-03-22 22:36:23 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 昨日の投稿をもう一度読んでみたいと思います。
 「大の八と諂と誑とは上にして亦、下をも縁ず。下縁の慢等と相応して起こるが故に。梵は釈子(しゃくし)に於いて諂と誑を起こせるが故に。 憍は下をば縁ぜず。所恃(しょじ)に非ざるが故に。」(『論』)
 所恃とはよりどころ。たのむもの。

 「・・・梵王の馬勝の手を執るは。是れ諂と誑なるが故に。此れは本質(ほんぜつ)に拠る。若し影像(ようぞう)ならば皆、唯自地なり。自心に属するが故に。唯 憍は下をば縁ぜず。下地の法は劣なれば所恃に非ざるが故に。」(『述記』)

 『論』と『述記』に述べられています「梵於釈子諂誑故」の記述は『大毘婆沙論』に出てくるもので、『演秘』に「経説を引きて云わく」としてその意の概略が示されています。再録します。

 論。梵於釋子起諂誑故者。按婆沙論百二十   上地にいる梵天が下地にい
 九引經説云。如佛昔在室羅筏城住誓多     る釈氏(馬勝比丘)に対して
 林。時有 悳芻名曰馬勝。是阿羅漢。作是思   諂と誑を起こした、という例を
 惟。諸四大種當於何位盡滅無餘。煩惱繋    挙げて説明をしています。
 縛爲欲知故入勝等持。即以定心於誓多     阿羅漢の馬勝比丘が「諸の          
 林沒於四大王衆天出從定而起問彼天      四大種は何の位に於いて永
 衆。諸四大種當於何位盡滅無餘等。答曰    滅し、余の諸煩悩の繋縛から
 不知。如是欲界六欲天等展轉相推。乃至    離れる事ができるのか、と
 他化自在天所被復作推梵衆諸天。欲      思惟をしたのです。「知らんと
 往梵世復入勝定復以定心自在宮沒梵      欲するが為の故に。」定に入
 衆天出從定而起還作上問。梵衆咸曰。我等   り天界に昇ったのです。最初
 不知復推大梵。馬勝尋問如前所問。彼大    は四大王衆天(六欲天の一番
 梵王處自梵衆忽被馬勝 悳芻所問。梵王     下)に昇り「彼の天衆に問う」
 不知便矯亂答。我於此衆是大梵・自在・作    たのですが、「知らず」と。誰も
 者・化者・生者・養者・是一切父。故知有誑。作  知らなかったのです。そして
 是語已引出衆外。諂言愧謝還令問佛。故    欲界の六欲天の上位にいる四
 知有誑。                  王衆天を展転して相い推したの

です。しかし誰も知らなかったのです。「乃至他化自在天」の妙自在天子に尋ねたが、やはり知らなかったのです。そこで「梵衆の諸天」を推挙するのです。「梵世に赴かんと欲して、復た勝定に入って復た定心を以って自在宮に没して梵衆天に出づ。定より起きて還って上の問いを作す。」梵衆天の答えは「我らは知らずして復た大梵を推す。」大梵天王も復た知らなかったのですが「梵王知らずして便ち 鉦乱して答う。」大梵天王はうろたえて、取り乱していたのですね。馬勝比丘の問いには答えずに「我この衆に於いて大梵、自在なり。作者なり、化者なり。生者なり、養者なり。是れ一切の父といえり。」と威張り酔傲したのです。これを『大毘婆沙論』では「故に知りぬ。誑有りといえり。是の語を作しおわって引きて衆外に出て諂言愧謝して還って仏に問わしむ。故に知りぬ。誑有る事を。」これは大梵天王の諂と誑による語業であり、誑であるといっているのです。大梵天王は自ら馬勝比丘の手を引いて、衆の外に連れ出し「諂言愧謝」したのです。皆の前ではなかなか謝ることはできませんね。それと同じように自分の非を認めるわけにはいかなかったのでしょう。「実は私は知らなかった。しかし梵天衆は私は何もかも知っていると思っているので、彼らの前で本当のことは言えなかった。なぜかというと軽蔑されるからです。」と己の非を認め陳謝したのです。そして仏陀釈尊なら知っているであろうと告げたのですね。これが大意になります。

 『述記』には「梵王が馬勝の手を執るは、これは諂と誑なるが故に」と述べています。そしてこれは本質によって述べられているといいます。本質(ほんぜつ)とは心・心所が心のうちに諸の対象を変現する影像(相分)のよりどころとなるもので、相分の本体の形を本質といい、阿頼耶識の相分になります。また馬勝比丘の阿頼耶識が出させたものということになり、本質相分の位は下地の所属になりますから、この例を引きだして「上にして亦下を縁ず」証左にしたのですね。
 次に「唯 憍 は下をば縁ぜず」という、小随煩悩の「憍 」についての考察になります。「非所恃」だからという答えです。下から上を見るときは 憍は働くのでしょうが、上から下を見て 憍を起こす必要はないのですね。「深く染著を生じて、酔傲する」必要はありませんから憍 は起こらないのです。
 
 大梵天王が馬勝比丘を認識している時(私が誰かを認識している時)、認識している対象は対象の本質相分を認識しているのではなく、大梵天王(或は私)が馬勝比丘(誰か)を対象として自らの心が映じた影像相分を認識していることになります。識所変としての所現ですから、大梵天王が馬勝比丘を認識しても、それは自らの識所変になりますから色界初禅のものとなり、下地を縁じているものではないこといなります。
 このことをふまえて『述記』は、この逸話は馬勝比丘の阿頼耶識が出させた本質相分によって述べられていると記しているのです。つまり馬勝比丘から見た逸話ということになります。馬勝比丘は大梵天王の本質相分を認識しているのではなく、大梵天王の影像を自らの上に作り出したものとして認識していますから下地に属することになり、下地が上地を縁ずるという証拠になるのです。

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