唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 散乱(2)性と業について

2015-12-13 23:26:15 | 第三能変 随煩悩の心所


「云何なるか散乱。諸の所縁に於いて心をして流蕩(るとうーほったらかしにすること)ならしむるを以って性と為し、能く正定を障えて悪慧の所依たるを以って業と為す。謂く、散乱の者は悪慧を発するが故に。」(『論』第六・三十左)
 (どのようなものが散乱の心所なのであろうか。散乱とは、もろもろの認識対象に於いて、心心所を乱れ動かすことを以て本質とし、よく正定を妨害して、悪慧の所依となることを以て具体的な働きとする心所である。つまり、散乱の者は悪慧を発するからである。)
 落ち着きのない心を散乱と表現しているように思います。散乱は後に「倶生の法」であると云われますが、散乱と倶に生起した心・心所のことで、散乱とともに働く心・心所ですね。
 流蕩につきましては、昨日概略で述べましたが、「流蕩とは「流」は馳流(ちる)なり。即ち是れ散の功能の義なり。「蕩」とは蕩逸(とういつ)。即ち是れ乱の功能の義なり。」と云われています。「流」で散乱の散の働きを示し、「蕩」散乱の乱の働きを示しているのです。馳流(ちる)は馳せ流れること、蕩逸(とういつ)しまりがなく、きままなことという意味になります。自分の思いにながされて、他を気遣うこともなく、我儘でしまりのない生活者ということになりましょうか。僕のことを言い当てている、という感じですね。
 流れるということは、自分の思いで決めつけてしまうことだと思うんですね。自分の思いのままに変えてしまうことを「諸の所縁に於いて心をして流蕩(るとうーほったらかしにすること)ならしむるを以って性と為し」と、定義づけているように思います。心の私有化の問題ですね。すべては自分の作り出した虚像である、と。散乱の本質は、自分が自分の心に翻弄されているということなのでしょうが、それが解らないから、散乱の因を外に求めて自己を正当化していくのでしょう。教えられます。
 
 散乱もまた仮立されたものなのですが、何の上に仮立されたのかについて、三師の異説が述べられます。第三師の護法の説が正義とされます。異説については後日にします。

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