唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (51) 第十一 見断等門 (5)

2016-03-31 21:28:14 | 第三能変 随煩悩の心所
 四月八日はお釈迦さまの誕生日 煩悩の項より復習しています。何故復習しているのかと云いますと。『論』に「見所断の中随煩悩と大随煩悩が四諦に迷う行相の親疎については、すべて煩悩に説いた通りである。」ということに起因します。昨日のつづきになります。
 二取(見取見と戒禁取見)について
 「二の取は彼の三の見と戒禁(カイゴン)と及び所依の蘊(ウン)とを執じて勝なり能浄(ノウジョウ)なりと為す。」(『論』第六・二十一右)  
 二つの取(見取見と戒禁取見)は、かの三つの見(薩迦耶見・辺執見・邪見)と戒禁取見と及び所依の五蘊とに執着して、二取は勝れたものであり、よく浄らかにするものであると考える。
 説明でもわかりますように、二取は、薩迦耶見・辺執見・邪見と戒禁取見と及び所依の五蘊とに執着して、その上に苦諦に迷うことを明らかにしているのです。つまり、直接的に苦諦に迷うのではなく、間接的に苦諦に迷うという迷い方であって疎迷と云われています。
 戒禁取見〈ziila-vrata-paraamarza〉
 「五には戒禁取。謂く諸見と随順せる戒禁と及び所依の蘊とのうえに執して最勝なりと為し、能く清浄を得すという。無利の勤苦が所依たるを以て業と為す。」(誤った見解にもとづく外道の戒を取り入れて、そのような戒を、正しい戒であると思い、その戒を説く人を最も勝れた者であり、その戒を保つと清浄な涅槃を得る原因であると考える見解であって、いたずらに身を苦しめる心である。) 
 これは戒禁〈かいごん〉されたものを勝れた正しいものと誤って執着する考え方である。これに非因計因と非道計道との二を立てる。すなわち、実際に因果の正しい立場に立てば因とならないものを因と誤って考え、それを勝れたものと執ずる見である。仏教の正しい菩提(さとり)に対して、それを達成する正しい因をとらず、間違った因を正しいものと誤って執着するようなものである。
 非道計道とは涅槃の道に非ざるものを涅槃の道と間違え、それを正しく勝れたものと誤って執着することである。このことは一般に注意すべきことで、ある立場の実現には、それを達成する正しい方法があるはずである。また、この立場に基礎付けられた正しい方法によってこそ、その立場は実現されるのである。
自らの目的の達成は目的を達成する正しい方法の自覚自行によるので、立場と方法、思想と実践とが別々であっては、何も成功しない。悪見の中に、戒禁取見を説くのは、仏教の正しい因果論をふまえての説であることに注意しなければならない。(仏教書大辞典より)
自分の見方が最勝であるという見解や、最後は自分の行っている戒律が最高のものであるという思い込みですね。我執を中心に見ていく在り方が根本煩悩といわれるものです。このように煩悩は自分が一番正しいと執着を起こして苦を自分で招いてくるのです。苦の因を他に求めながら実は自分の中から起こしている、ということになります。  
「「述して曰く。謂く諸見に依って受ける所の戒なり。此の戒を説いて勝と為す。諸見に順ずる戒と及び戒の所依の五蘊の眷属を執して勝と為す。及び能く涅槃の浄を得と云うは戒取と名く。戒は即ち是れ禁(イマシム)なり。戒は性と遮と別なり。この戒に由って一切の外道は抜髪(バツハツ)等の利無き勤苦を受持するが故に。戒と及び眷属とを除く。外に余の一切の法は勝なり及び能く因と為って清浄を得と執す。戒は勝と執せず、但だ能く因と為ると言うと雖も、並びに戒取に摂するに非ず。・・・」(『述記』第六末・二十七左)
戒禁取見とは、つまり、(戒禁とは、外道が説く戒と、その規範)諸々の悪見に随順する戒禁と及びその所依の五蘊とに於いて執着して最勝であるとし、そのことがよく清浄を得ると考えるのである。
戒禁取見は、利益が無く、勤苦の所依となることを以て業とする心所である。この考え方は外道の説が悪いといっているのではないんですね。自己中心的に動いていきますと、外道の立てる戒を勝れたものであると思い込みます。間違いを起こすんですね。まさに政治・経済そのものでしょう。政治・経済が戒になりますね。その戒を説く人を尊敬しますし、その戒を守って生活の指針とします。しかしですね、自己改革といいますか、自己に対するプロテストがありませんから、いたずらに身を苦しめるものであると説かれているわけです。

仏法を聞いていてもですね、仏法を楯にとって裁くということが起ってきます。両刃の剣といいましょうか、自分が見えてこない、見えてこないと、人を裁くのですね。裁いていることさえ見えないですからね。深い問題が隠されています。他を社会を問うているわけではないんです、他を社会を縁として自分が問われているのです。戒禁取見はまさに両刃の剣の切っ先が問われている見解であると思います。

その為に、涅槃と菩提を障えるわけです。煩悩障・所知障といわれていました。障礙ですから、真理に反逆しているわけです。そうしますと、当然に苦を生み出してきます。利を生み出さないわけですね。「利無き勤苦」(無利勤苦)と教えています。菩提を得る勤苦は「利有る勤苦」(有利勤苦)と称されます。

 見取見と戒禁取見が苦諦に迷うのは、どのようにして迷うのか、何に迷うのかを説明しているのですね。『述記』には端的な説明が述べられています。
 「見・戒の二取は、
  前の三見と及び倶時の蘊とを執して、勝なり能浄なりと為す、是れ見取なり。
  彼と倶なる戒と及び蘊とを執して、勝なり能浄なりと為す、是れ戒取なり。・・・」
 また、『演秘』には
 「此れ等は三見等を縁じ起すを用つて、苦集の理に望むるに所隔有るが故に、これを名づけて疎と為す。是れ重縁の惑なり。」(別して行相の別を釈す。麤相)と釈されています。
 見取見は、「三見(薩迦耶見と辺執見と邪見)と及び倶時の蘊とを執して」と云われてますが、倶時ですから同時に、三見と同時に存在する五蘊に執着して、最勝であり、能浄であると考え執着をすることにおいて迷うという在り方です。
 戒禁取見は、「(三見)と倶なる戒と及び蘊とを執して」、三見に随順する戒禁と所依の五蘊に執着してという意味になります。(誤った考えに随順して、誤った戒)を最勝とし、能浄であると考え執着をすることにおいて迷うという在り方です。こういう迷いの在り方を疎迷というのですね。重縁の惑と名づけられています。
 
 相応の無智と不共の無明についてはですね、
 『述記』には、相応の無智について、九(癡を除く九の煩悩)と相応する無智は、九の煩悩の所応に随って、親迷と疎迷に於いて苦諦の理に迷うのであると述べています。そして、不共無明は、苦諦の理を了解することができずに、親しく苦諦の理に迷うのである、と教えています。
 相応無明 ― 諸煩悩と相応して生起してくる無明ですから、薩迦耶見・辺執見・邪見のように直接的に迷う煩悩と相応する時は、相応無明は親迷になり、貪・瞋・慢・見取見・戒禁取見のように、苦諦の理に間接的に迷う煩悩と相応する時は、疎迷になります。
 不共無明 ― 独行無明とも云われます。単独で四諦に迷う在り方を云います。恒行不共無明と、独行不共無明に分けられますが、昨日説明しましたので省略します。

 「疑と及び邪見は親しく集等に迷う、二取と貪等とは苦に准じてまさに知るべし。」(『論』第六・二十二右)
 これまでは苦諦に迷う諸煩悩の在り方をまなびましたが、今回は苦諦以外の集諦・滅諦・道諦の三諦に迷う八煩悩について釈されます。何故、八煩悩かといいますと、薩迦耶見と辺執見はただ苦諦にのみ迷うと述べられていましたので、ここでは除いています。しかし、厳密に言えば、三諦に迷うのであるが、ここでは説かない、という立場ですね。
 「集・滅・道の三に於て、ただ八有る中に、二見(身・辺)を除くが故に。疑と及び邪見と不共無明とは、親しく集等の三諦に迷う。然るに実には身・辺の二見が別に三諦に迷うこと有るも、八有りと説けるを以ての故に。略して論ぜず。二取と貪等とは、前の苦に准じて説く。二見は集・滅・道の下に無きを以ての故に。又ただ親迷なり。」(『述記』第六末・六十一・左))
 疑と及び邪見と不共無明は、三諦に迷う親迷であることを明らかにしています。そして、二取(見取見と戒禁取見)と貪等(等は等取。貪・瞋・慢と相応無明)とは苦諦に准じて知るべきである、と。
 准じてということですから、なぞらえて、苦諦の所論と同じように知るべきである、ということですね。
 貪・瞋・慢・戒禁取見・見取見は苦諦に対して疎迷であることから、三諦に於いても疎迷である、ということになります。疑・邪見と相応する相応無明も、苦諦に准じて、三諦に於いても親迷である。貪等と相応する無明も、苦諦に准じて、三諦に於いては疎迷であるということになります。 
 瞋についての所論
 「然も瞋は亦能く親しく滅道に迷う、彼を怖畏(フイ)するに由って憎嫉(ゾウシツ)を生ずるが故に。」(『御』第六・二十二右) しかも瞋は、またよく親しく(直接的に)滅道(滅諦・道諦)に迷うのである。何故ならば、滅諦・道諦を怖畏(おそれること)することによって憎嫉(にくみ、きらうこと)を生ずるからである。
 前科段において、瞋は貪・慢・二取とともに、集諦・滅諦・道諦に於いて疎迷の煩悩であると説明してきましたが、特に瞋は滅諦と道諦に於いては、親しく迷う親迷の煩悩であることを明らかにし、その理由を説明しているのです。
 「この意の顕さく、瞋は無漏を縁ずるが故に。滅・道の理に迷って生ずるが故に。苦集の理に瞋すること無きが故に。・・・」(『述記』)
何に由ってこういことが言えるのかと云いますと、瞋は無漏法を縁ずるからである、と。つまり、滅諦・道諦の理に迷って生起するからであるというわけです。滅諦や道諦という無漏法を怖畏することによって、憎嫉という、憎しみや嫉妬を起こすからなんですね。
 「論には、唯無漏の諦理に迷うと説くのみにあらず、彼(瞋)は親しく二諦に迷って起こるに由るが故に。これより上は、皆五十八と同なり。」(『述記』)
 『瑜伽論』巻第五十八には「(瞋恚は)謂く滅諦に於て怖畏の心を起こし、損害の心を起こし、恚悩の心を起こす。是の如き瞋恚は滅諦に迷うなり。・・・所余の貪等の道に迷う煩悩は、滅諦に迷う道理のごとく応に知るべし。」と説かれている。道諦に於いても、滅諦に迷う道理と同様に知るべきであると説かれているわけですね。これを受けて『論』には「瞋恚は滅道を憎嫉すと説けるを以て、亦離欲地(上界)をも憎嫉す応きが故に。」と説かれていたわけです。そうしますと、憎嫉の内容は、「損害の心を起こし、恚悩の心を起こす」ことなのですが、この心は理に迷って起こってくるんですね。
 「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とう理に迷って生起してくるのが瞋恚という煩悩なんですね。その内実は、
 「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と、おおせのそうらいしは、われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもいて、願の不思議にてたすけたまうということをしらざることを、おおせのそうらいしなり。」(『歎異抄』)
 これが道理なんですね。道理に反逆した在り方を、邪見・憍慢の悪衆生と押さえられているのでしょう。瞋恚は起こそうと思って起きるものではないんですね。道理に反する、道理に迷うことに由って自然発生的に起ってくるわけです。逆にいえば、いかり・はらだちは、道理に迷っているという証しでもあるんです。ご縁の世界に生き切ることができない自分が見えてきます。
 このような理由によって、瞋恚は直接的に滅諦・道諦に迷う煩悩であることが明らかにされたのです。
 
 麤相門の結び
 「諦に迷う親疎の麤相是の如し。」(『論』第六・二十二右)
 四諦に迷う麤相門は以上の通りである。
 「未だ理を盡さざるが故に、五十八に説く、亦麤相なり。」(『述記』第六本・六十二左)
 以上は麤相(おおまかなありよう)によって説いてきたのである。『瑜伽論』巻第五十八(大正30・623c~624a)に説かれている所論と同じであるが、これは未だ理を盡していないので『瑜伽論』の内容は麤相によって説かれているということになります。
 「
 行相の別」の迷いについての委細門が説かれます。
 「委細(イサイ)に説けば・・・」 細かく、詳しく説くならばと云う、
 「委細に説かば、貪・瞋・慢との、三が見と疑と倶に生ずるは、応(ヨロシキ)に随って彼が如し。」(『論』第六・二十二左)  委細に説くならば、貪と瞋と慢との三つが、三が見(薩迦耶見・辺執見・邪見)と疑と倶に生じる場合は、よろしきに随って彼(疑と薩迦耶見・辺執見・邪見)のように理解すべきである。
 「述して曰く。疑と三見と無明との五法は親しく諦理に迷う。二取は疎遠なること前に定んで説くが如し。且く苦諦の下の貪瞋慢との三は、若し独頭に起こる見を縁じて生ずるをば疎遠なること前に説くが如し。」
 麤相門に於いては、疑と三見と無明の五法は苦諦に対して親しく迷う煩悩である。(親迷)
          疑と邪見と不共無明は、親しく集諦・滅諦・道諦に迷う煩悩である。(親迷)
          二取は苦諦に対しても、集諦・滅諦・道諦に対しても疎迷である。
          苦諦に対して疎迷である貪・瞋・慢と相応する時は、集諦・滅諦・道諦に対しても疎迷となる。
 つまり、貪と瞋と慢は四諦に対して疎迷である。「貪瞋慢との三は、若し独頭に起こる見を縁じて生ずるをば疎遠」であるというのが、麤相門において説かれていたのです。
 
 委細門に於いて論ずるならば、
 貪・瞋・慢の四諦に対する迷い方は、倶に生起する疑と三見の煩悩の親迷か疎迷かということになります。貪・瞋・慢が三見と倶に生起する場合と、貪・瞋・慢と、疑と三見が倶に生起する場合は、疑と三見の迷い方と同じになるので、そのように理解するべきである、という。
 「貪と慢と三法(薩迦耶見・辺執見・邪見)と倶なり。瞋は疑等の四と倶起するは、応に随って彼が如く、亦親しく諦に迷うと名づく。慢と貪と我見と倶生して、滅道の下の煩悩の後に於て起こるを亦無漏に迷うと名づく。瞋は疑と倶起し、或は独り起こる。これは数の総に約す。」(『述記』)
 ① 貪・瞋・慢の中、貪と慢は薩迦耶見・辺執見・邪見と倶起する為に、三見の迷い方と同じになる。疑は除かれる。
 ② 瞋は疑と三見と倶起する為に、疑と三見の迷い方と同じになる。 
 麤相門 ― 独頭に生起する貪・瞋・慢は、四諦の事に迷う。(事とは、現象的存在で、理によって生じる一切の有為法をいう。)
 委細門 ― 「若し三見と疑と倶なるは亦四諦の理に迷うと名づく。」(理とは、現象的存在を貫く法則を云う。縁起の理・真如の理で、存在の真実のありよう。) 

 ここで説かれている麤相門は大雑把にいえば、貪・瞋・慢は、四諦の事に迷う煩悩であるということなのですが、しかし、事は理によって生じてくるものなんですね。ですから私たちが日常の中で、むさぼりや怒りや慢心を起こしている時には、我見や辺見や疑と倶にして起こしていることなのです。我見と辺見と邪見によって自分を縛り、、疑は自分を信ずることができないということでしょう。つまり、三見と疑を依り所にして表面化してくる煩悩ということになりましょうか。
    
          麤相門(表層)
     ―――――――――――――――――――
         委細門(麤相門の背景)

 十の煩悩は、どれがどれと相応(倶起)するのかは、自類相応門を参考にしてください。(2014年7月11日~8月11日の投稿)
 前科段までは分別起の煩悩の断についての説明でありました、倶生起の煩悩の断はどうなるのかという問いに対して答えていきます。「六通倶生及分別起」の倶生起のぼんのうの断についての説明になります。
 初は、迷理の煩悩の断について。
 後に、迷事の煩悩の断について。
 (初)
 「倶生の二の見と、及び彼と相応する愛と慢と無明とは、苦諦に迷うと雖も、細にして断じ難きが故に、修道にして方に断ず。」(『論』第六・二十二左)
 倶生起の煩悩の二の見である薩迦耶見と辺執見と、及び二の見と相応する愛(貪)と慢と無明(癡)とは、親しく苦諦の理に迷うとはいえ、その行相は細にして断じ難いので修道において断ずるのである。細かい議論はさておき、倶生起の煩悩は修所断であるということですね。
 倶生起の薩迦耶見と辺執見と、これに相応する貪・慢・癡は迷理の惑である。「細にして断じ難きが故に」と修所断である理由を述べています。迷理の惑である理由と修所断である理由を「細難断」の言葉を以て示しています。
   五逆罪(害父・害母・害阿羅漢・破和合僧・出仏身血) ― 事      
 ―――――――――――――――――――――――――――――
   謗法(五逆罪の背景・誹謗正法)           ― 理             
     
   迷事の惑(罪福信)  貪・瞋・慢
 ―――――――――――――――――――――――――――――
    迷理の惑(仏智疑惑) 五見と疑
倶生起の迷事の惑の断について
 「瞋と余の愛等とは、別と事とに迷うて生じ、諦観に違せず、故に修所断なり。」(『論』第六・二十二左)
 本科段の「瞋と余の愛等とは」は何を指しているのかが問題になりますが、『述記』には「瞋及び前の二の見(薩迦耶見と辺執見)と相応するを除いての外の、余の独行の愛と慢と及び此れと相応する無明とは、別の有情或は境の事に迷って生じて、理に迷わず。四諦観に違せざるが故に修所断なり。」と説明されています。
 瞋及び、倶生起の薩迦耶見と辺執見と相応する貪・慢・無明を除いての「他の」倶生起の愛・慢・無明を指す。これは、独行の愛と慢と、独行の愛と慢と相応する無明は、別の有情や認識対象という事に対して迷う迷事の惑であり、理に対して迷う迷理の惑ではない。しかし、四諦観に違背するものではなく、これらの迷事の惑も亦修所断であると説かれています。
 さらに『述記』はつづけて「見道の独行の貪等は、事に迷うことありと雖も、然も諦観に違せるが故に、見所断なるを簡ぶ。」
分別起の煩悩の断は  ―  見所断
 倶生起の煩悩の断は  ―  修所断 
 ということになります。
 

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