唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 失念 (3) 護法の正義

2015-12-11 22:48:12 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 護法の正義を述べる。
 「有義は、失念は倶(く)の一分(いちぶん)に摂めらる、前(さき)の二の文に影略(ようりゃく)して説けるに由るが故に、論に復此は染心(ぜんしん)に遍すと説けるが故に。」(『論』第六・三十左)
 (護法の正義は、失念は念と癡の倶の一分であると云う。何故ならば、前掲の『雑集論』と『瑜伽論』の二の文に影略して説かれているからである。また『瑜伽論』(巻第五十五及び第五十八)には「失念は染心に遍く存在する」と説かれているからである。)
 護法論師は、第一師と第二師の説が、各論の教証が相違することを影略をもって会通(えつう)しています。会通とは、経典間で相違する教えがあるとき、それらを比較して矛盾がないように解釈することですが、第一師は『雑集論』巻第一「失念は煩悩と相応する念である」と説かれていることを教証として、念の一分であると主張していますが、第二師は『瑜伽論』巻第五十五「失念は癡の一分である」と説かれていることを教証として失念は癡の一分であると主張していました。両者の矛盾を会通して、失念は念と癡の倶の一分であると説いているのです。
 『雑集論』は念をもって癡を略し、『瑜伽論』は癡をもって念を略して説いているのであると会通しています。このような説き方を影略互顕(ようりゃくごけん)といいます。辞書を紐解きますと「ある語句がその表現しようとする意味の一部を省略し、しかもその影においてその意味を顕すように造られている語句構成の一つの形式」であると述べています。
 もう一つの証明は「論に復此は染心(ぜんしん)に遍すと説けるが故に。」ということです。『論』は『瑜伽論』(巻第五十五及び第五十八)を指しますが、巻第五十五には「不信と懈怠と放逸と妄念と散乱と悪慧は一切の染汚心と相応する」(大正30・604a)と説かれています。妄念は失念のことです。また巻第五十八には「随煩悩の放逸と掉挙と惛沈と不信と懈怠と邪欲と邪勝解と邪念(失念)と散乱と不正知のこの十の随煩悩は一切の染汚心に通じて起こる」と説かれていることを挙げて、失念もすべての染汚心に遍く存在するものであり、念の一部であるとか、癡の一部であるということではなく、念と癡の倶の一部の心所であると主張してきます。
 第二能変・心所相応門において、護法論師は、
 「忘念と不正知とは、念と慧とを以て性と為るならば、染心に遍せず。諸の染心に皆曾受を縁じ簡択有るにしも非ざるが故に。若し無明を以て自性と為るならば、染心に遍して起こる、前に説きつるに由るが故に。」(『論』第四・三十五左)
 (忘念と不正知は念と慧を性とするならば染心に遍在しない。何故なら諸々の染心にすべて曾受の境を縁じる働きや、簡択する働きが必ずしも存在するとは限らないからである。若し無明を以て自性とするならば染心に遍在して起こるのである。それは前に説いた理由による。)
 「忘念と不正知は念と慧を性とするならば染心に遍在しない」と護法は述べます。曾受の境とは念の認識対象のことで、六遍染師は忘念は別境の念の一分の染のものであると考えます。そして不正知は別境の慧を体とした染のものとします。この六遍染師の忘念と不正知の存在論に問題があると提起します。問題は忘念を念の一部とし不正知を慧の一部とする存在論であるならば遍染の随煩悩とはいえないということです。その理由が「諸々の染心にすべて曾受の境を縁じる働きや、簡択する働きが必ずしも存在するとは限らないからである」と述べます。
 「述して曰く、別境は亦是れ染にも遍すということを簡ばんが為の故に忘念等という。忘念と不正知とは、若し即ち別境の念と慧を以て性と為るならば染心に遍ぜざるなり。論(『瑜伽論』巻第五十五)に遍というは、無明の分に依って説くと言へり。所以は何となれば、第二師を破す。彼れは唯是れ彼(念・慧)の数と執するを以ての故に諸の染心に皆曾受を縁ずるに非ず。彼が念の数を破す。且く邪見、滅諦を撥無するが如し。此れ豈に曾受ならんか。彼若し是れ先に名を聞くが故に方に無を撥すとは、豈に名を撥せん耶。今、邪見は体を撥す。体は未だ曾より受けざるが故に。諸の染心に皆な簡択有るに非ずとは、前師の不正知有り、是れ慧の分なりと説くを簡ぶ。此の二(忘念と不正知)は若し無明を以て体と為すならば染心に遍ずべし。」(『述記』第五本・六十六右)と。
 詳細につきましては、2011年11月から12月のブログを参考にしてください。遍染の問題を解説しています。

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