掉挙における問題点を会通する。
『述記』に問を以て掉挙の問題点を示しています。
「問、不信と懈怠と惛沈とは然もある可し。或いは体実有なりといい、或いは惛沈は是れ仮有にして或いは通じて諸惑の一分なりといい、或いは是れ愚癡の分なりといい、此れが中に掉挙は既に是れ貪が分なり。貪・瞋倶起せざるが故に如何ぞ瞋の時にも有らん。而も染心に遍ずというや。此の師解して云く、」(『述記』)
問題点は貪と瞋とは相反する心所であるから両者は並存することはない。『瑜伽論』巻第五十五に「掉挙は是れ貪の分なるが故に世俗有なり。」と説かれ、掉挙は貪の別用を体としている、といわれています。別の言い方をしますと、掉挙は貪の一部ということになります。この第一師(五遍染師)の煩悩が生起する時には必ず五つの遍染の随煩悩が存在する、という主張には問題があると指摘されます。すでに掉挙が貪の別用であることは瞋の時には掉挙は生起することはあり得ないのです。それならば、どうして瞋の時にも染心に遍在するといえるのか。染心に掉挙が遍在するという主張は誤りということになる。これに対して答えているのが次の科段になります。
「掉挙は一切の染心に遍ぜりと雖も而も貪の位には増せり。但貪が分と説けり。」(『論』第四・三十二右)
(掉挙はすべての染心に遍在するのであるが、特に貪の位には掉挙の働きが増すのである。これによって掉挙をただ貪の一分であると説いている。)
「述して曰く、・・・・一切の染心にあるをもって即ち瞋の起こる時にも而も定んで掉挙の自性有り。而も貪の起こる位には即ち掉挙は増せり。多く貪に順ぜるが故に。而も実に体あり。故に染心に遍ぜり。五十五に是れ仮有と説くは別体無し。是れ実有なりとは即ち別体有りといはむとぞ。世俗有とは或いは別に体有り、或いは体無しといはむとぞ。下(『論』巻第六)に自ら此の世俗有ということを解するが如し。故に是れ実有り。此れが中に弁ずる所の実に体有り等というは或いは文外の意なり。諸論には多く貪が上に依って立つるに約して、故に貪が分といへり。世俗有の中に実を尅して体を出すは、即ち別に有なり。」(『述記』第五本・四十七左)
五遍染師の主張は「掉挙はすべての染心に遍在する(実物有)」ことから問題はない、という。『瑜伽論』巻第五十五に説かれていることは、貪の位、即ち貪が活動している時には、掉挙の活動も増大するということを説いているのであって、掉挙が貪の一部であると説かれているものではない、掉挙は固有の体を持つ実有の法であるから瞋が存在しても生起するのであって、染心に掉挙が偏在することに問題は無い、と会通しています。
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