唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初年度講義概要 第二能変 初講

2017-01-08 11:23:18 | 雑感
  

  本年度正厳寺作までの講義は、第二能変からになります。第二能変は幾度となく読ませていただいておりますので、今回は少し丁寧に読みこなせたらと思います。「唯識に自己を学ぶ」或はブログにも投稿しておりますが、幾度となく読むことが大切な作業となります。またか、と思われるかもしれませんが、読んでも分からないところが多々あります。繰り返しの作業の中から、何か得られるところがありますならば幸いです。
  第二能変については、2011年1月1日より、ブログで更新しています。
 第二能変を釈す ・ 八段十義について
是の如く已に初の能変の相をば説く。第二の能変の其の相云何。」
(第五頌~第七頌)
 頌曰     次第二能変  是識名末那
        依彼転縁彼  思量為性相  第五頌
        四煩悩常倶  謂我癡我見
        并我慢我愛  及余触等倶
        有覆無記摂  随所生所繋  第六頌
        阿羅漢滅定  出世道無有  第七頌
 「頌に曰く、次は第二の能変なり。是識をば末那(まな)と名けたり。 彼(第八識)に依て転じて彼(第八識)を縁ず。思量するをもって、性とも相とも為す四の煩悩と常に倶なり。謂く我癡と我見と、並びに我慢と我愛となり。及び余と触等と倶なり。有覆無記(うぶくむき)に摂む。所生(しょしょう)に随って繋(けい)せらる。阿羅漢(あらかん)と滅定と、出世道とには有ること無し。」
 

 初能変・五教十理証を結んで、第二能変が述べられます。 初能変の結文は、
 「別に此の識有りという教と理顕然(けんぜん)たり、諸の有智の人、応に深く信ずべし。」
 (眼等の六識とは別にこの、第八識が存在するという教と理も明らかである。由って諸々の有智の人は心にしっかりと深く第八識が存在することを信受すべきであろう。)
 第八識の存在証明を受け、第二能変のその相はどうであろうか。 「其の相云何」で始まる。第二能変は『三十頌』では第五頌・第六頌・第七頌の三頌で、『成唯識論』では八段十義(十門)・二教六理証によって論じられている。
 初に相を十門に分け、その視点で第二能変が論じられるわけです。
 「述して曰く、下は問いに依って辨ず。此れは三の頌に依って其の第七識を十の門をもって分別するなり。初に第二能変を挙げて末那の名を出し、二に所依を釈し、三に所縁を解し、四に体を出し義を釈し、五に行相を釈し、六に染と倶ということを顕し、七に触等と相応すといえり、八に三性において分別し、九に界地において分別し、十に隠顕において分別す。即ち是れは伏断する位次なり。」(『述記』)
 『論』の長行釈の論述から「八段を以て十門を釈」されています。八段は、一に能変の体を出し名義を釈し、二に所依を明かし、三に所縁を解し、四に自性・行相門。五に染倶・触等門、六に三性門、七に界繋門、八に起滅分位門の八段を以て第七識を明らかにしている。次に第七識の存在証明として二教六理証が論じられます。二教六理証として、第七識の存在証明が必要なのか、という問いが出てきます。部派仏教から大乗仏教への大きな転換期に、部派仏教で詳細に解明されてきた六識の存在証明は必要とせず、その深層にある第八識(と第七識)の存在を証明する必要があったのですね。部派仏教ではその存在は認められていない為、論証し、部派の教説を論破する必要があったのです。その為、第三能変においては六識の存在証明は必要とされなかったのですね。
 十門が八段になる理由
 十門中の第四の自性門と第五の行相門が一つになって、第四段の自性・行相門に配当されている。自性門においては識の体、即ち自体分(自証分)を述べ、その働きである見分に関する論述であるので、一つにまとめられて、第四段の自性・行相門として述べられている。そして、第六門の染倶門と第七の相応門が一つにまとめられ、第五段・心所相応門として述べられる。第六門と第七門は識と相応する心所について論じられているので、一つにまとめ得られることから、第五段として述べられ、八段十門として分類されているわけです。
 • 第一段・出能変体釈其名義 ― 第二能変 是識名末那 ―(第五頌)1、標名門
 • 第二段・所依門 ― 依彼転 ―(第五頌)2、所依門
 • 第三段・所縁門 ― 縁彼 ―(第五頌)3、所縁門
 • 第四段・自性行相門 ―思量為 { 性 - (第五頌)4、自性門               相 - (第五頌)5、行相門
 • 第五段・心所相応門 ― 四煩悩常倶 我癡我見 并我慢我愛 ― (第六頌)6、染倶門  
 及余触等倶 ― (第六頌)7、心所相応門
 • 第六段・三性分別門 ― 有覆無記摂 ― (第七頌)8、三性門
 • 第七段・界繋分別門 ― 随所生所繋 ― (第七頌)9、界繋分別門
 • 第八段・起滅分位門 ― 阿羅漢滅定 出世道無有 ― (第七頌)10、隠顕門(起滅分位門・隠顕分別門)
 以上が八段十門の科文になります。この科文に随って『論』を読んでいこうと思います。
 「論に曰く、初の異熟能変の識に次いで、後に思量能変の識の相を弁ずべし」(『論』第四・十二右)
 長行により説明する。 (下に二文有り) 
 一に八段を以て十門を依釈する。
 二に二教六理を以て此の識有りと証する。
 初の段に二有り(初がさらに二つに分かれる)。一に、頌を解釈し、ニに問答(第七識を意と名づけた場合に起きる問題を検討する)
 本頌を解釈するのにまた二つに分かれる。一に、第七識の能変の体について説き、二に第七識が末那、意と名づけられる理由について説かれる。これは一である。
 「是の識をば聖教に別に末那と名けたり、恒に審に思量すること、余識に勝れたるが故に。」
 (この第七識は聖教において他の識とは別に末那と名づけられる、何故なら恒に審に思量すること、他の識に比べて勝れているからである。)
 本科段は名義を釈し、別名末那を釈す。
 一に「総じては識と名づける。」、末那というは意であると。阿頼耶識は心といわれ、六識は識という意義がある。総じて識と名づけられるのは、『楞伽経』に「識に八種有り」と云うをもって、識といえば通名である。『瑜伽論』巻六十三に「諸識を皆、心・意・識と名づくと雖も、義の勝れたるに随って説かば第八を心と名づけ、第七をば意と名づけ、余識をば識と名づくといえり。」というのが、聖教に説かれている証になるわけです。諸識をすべて心・意・識と名づけるのは通名である。しかしそれぞれの勝れたる特性をもって説くならば、第八識は心といい、第七識は意といい、その他の識は識と名づけられる、という証文を以て「是の識をば聖教に別に末那と名けたり」と述べられているわけです。
 二に「又、諸識をば皆、意となすと雖も、これが為に意を標して余識は然んばあらずといはぬとぞ。総称を標すと雖も即ち別名なり」と、諸識は皆「意」と名づけられるが、その働きから、第七識が意というにふさわしく、諸識に別して特に意と名づけるのである。何故ならば、「恒に審らかに思量すること」が他の識より勝れているからである。「何が故に諸識を別に意と名づけずとならば、恒・審に思量すること余識に勝れたるが故なり」(『述記』)どのように勝れているのかは、次のようである。
 • 恒 ― 第六識・前五識は恒ではない。不恒である。第六識は審らかではあるが、恒ではない。
 • 審 ― 第八識・前五識は審らかではない。第八識は恒ではあるが審らか思量するという働きはない。前五識は縁に依って生起するので、恒でもなく、審らかでもない。
 恒に審らかに思量するのは第七識のみであるので、第七識の特性である思量をもって末那と称し、マナス=意、と名づけるという。
 出世の末那といわれることもありますが、その場合は自在位によって名づけられ、そこには未自在位の末那は転依して平等性智と名づけられ、末那とは名づけないのであって、即ち有漏にのみ名づけられ、無漏には存在しないのである、といわれます。又「顚倒の思量を遠離して正思量有るが故に」、無漏にも通じて末那と名づけるのである、と。正思量の義をもって末那ということもあるのである。
 「此の名、何んぞ第六意識に異なる」(『論』第四・十二左)
 (意を以て此の識の得名とするならば、どうして第六意識と異なるというのであろうか。)
 意を以て第七識の名とするならば、第七意識といってもいい、そうならば、第六意識と異なるというのはどういうことなのか、又第七識を意といい、意識と云わないのは何故か、という疑問がでてきます。『述記』によれば、「問いの中に二有り」、二つの問いの意味があるといっています。
 「述曰。 問うて曰く、八識と言うときの如き此れも亦識と名づく。末那を意と名づけ、総と別と合論して即ち意識と名づけたり。又、『瑜伽論』六十三に云く、識に二種有り、一には阿頼耶識、二には転識、此れに復七種あり、謂はゆる眼識乃至意識といえり。即ち是れ第七を名づけて意識とす。此の名何ぞ第六意識に異なるや。一のは則ち総と別とを合して名づけたるを以て理と為して難じ、二のは論文を以て例と為して難ず。」(『述記』第四末・五十右)
 『述記』によれば、
 (1)総と別があり、総じては八識はすべて識と名づけられる。別としては第七識は意と名づける。しかし総・別を合わせると第七識を意識と名づけ得られるという。ここに第七識を意識というのと、第六識を意識というのには、どこが違うのかとう問いが生まれます。
 (2)『瑜伽論』六十三の記述から「転識に七種あり」と説かれている。この七番目の転識を意識という。そうとするならば、第六番目も意識であり、第七番目も意識であるということになり、どこにその違いがみられるのかという問いが生まれます。  
 この二つの問いから『論』に答えられているのです。簡単に説明しますと、
 (1) 第六意識は、第七識である意を所依として起こる識である。依主釈である。第七識は持業釈である。識の体、そのものが意であるということ。意即ち識である。
 (2) 恒審思量の故に意の義は、特に第七識に親しい。
 (3) 第七識は、第六識のために近所依となるということを顕さんとして、第七識を意と名づけるのである。
  「意」という名の由来
 「此れは持業釈なり、蔵識という名の如し、識即ち意なるが故に。彼は依主釈なり、眼識等という如し、識いい意に異るが故に」(『論』第四・十二左)
 この段は問いに対する答えになります。 (此の第七識を意識と称する場合は、持業釈(じごっしゃく)である。これは第八識を蔵識と名づけるのと同じであり、識即ち意である。彼(第六意識)を意識と称する場合は依主釈(えしゅしゃく)であり、これは眼根等に依る識を眼識等と名づけるのと同じである。第七識を意識という場合は識と意は同じものを指すが、第六識を意識という場合は、識と意とは異なるものである、という。)
 • 第七識は、意=識で、意が識自体を指す。(持業釈・二つ或は二つ以上の単語から成る合成語の単語間の関係についての一つの解釈の方法)
 • 第六識は、意根による識(意根を所依とする識)、即ち、意根(第七識)を所依とする識であるという意味で意識と名づけられる。(依主釈)
 総じて意識の二字を釈す。
 「意というは、是れ自体なり。識というは即ち意なり。六釈(六合釈・りくがっしゃく)の中に於いて是れ持業釈なり。・・・阿頼耶識を蔵識と名づくるが如し。識の体即蔵にして亦是れ此の釈なり。此れは彼と同なり。故に指して喩と為す。いかんぞ此の釈を為るとならば、識体即意なるが故なり。其の第六識は体是れ識なりと雖も、而も是れ意には非ず。恒・審するものに非ざるが故なり。

識等というが如し、というは眼は是れ所依なり。而も体是れ識なり。眼に依るの識なり。故に眼識と名づく。何んぞ此の釈を為るとならば、識いい意に異なるが故なり。能・所依別なり、依に従って名を得たり。」(『述記』第四末・五十左)
 意と意識の相違とは?
 第七識を意と名づけ、第六識を意識と名づける理由
 三釈挙げられています。
 第一の釈は 「然も諸の聖教には、此れが彼に濫ぜんかと恐るるが故に、第七の於には但意という名のみを立てたり。」(『論』第四・十二左)
 (第七識を意と名づけ、第六識を意識と名づける理由について、『述記』に問いが設定されています。護法の答えにたいして、護法が問いを立て、答えているのです。
 「問う、今は名を得ること既に各不同なり、何が故に六と七と並に意識とは名づけずして、而も第七の於には但意という名のみを立てるや。若し意識と名づけば是れ持業をもって名を得と顕はしつ。但名づけて意と為ること竟に何の理有るや。」 と記されています。 即ち、第七識も第六識も意識と名づけてもよいはずなのに、第六識を意識と名づけ、第七識を意という名のみを立てるのか、それにはどのような道理があるのか、という問いですね。)
 第一の釈の説明は、第六も第七も意識と称するならば混乱が起きる恐れがあるので、諸の聖教には第七識には意という名をたてるのである、という。そしてその反対の問いも立てられるのですね。第六識を意といい、第七識を意識と名づけてもいいのではないか、というものです。にもかかわらず、第七識を意というのは何故なのであろうか。前項でも説明されていましたが、意は持業釈で、意=識であり、意で第七識を説明しているわけです。意識は依主釈であって、第七識を所依として成り立っている識を意識というのですけら、これは第六識に限るわけです。いうなれば、理が成り立たないわけですね。意識という場合は「意根に依る識」なので、第七識を意識とはいわず、意と名づけるのです。
 『樞要』二「第七は持業、・・・第六は依主・・・若し第六に一の意を標して識と言はざれば、自を顕すあたわず。第七に識を加えば、依主に濫ぜんかと恐る。故に第七には但意の名を標す。・・・第六に識を加えることは他に依るが故に名を得るを顕すが故に。」と述べられています。
 
 次は第二の釈なり。
 「又意という名のみを標せることは、心と識とに簡ばんが為なり。積集し了別すること、余の識より劣れるが故に。」(『論』第四・十二左)
 (また第七識について意という名のみを標示しているのは、第七識を心(第八識)と識(前六識)から区別するためである。その理由は第七識は積集し、了別することは他の識より劣っているからである。)
 八識はすべて心・意・識と名づけることができるけれども、増勝の義によって第七識を意と名づけるのである、と。
 「積集の心の義と了別の識の義とは余の識より劣るが故に、後の心(第八識)と、前の識(前六識)とに簡ばんとして但意という名を立てたり。恒・審するが故に。」(『述記』第四末・五十一左)
 積集(しゃくじゅう) - 蓄積すること。こころを心・意・識とに分類するとき、心の堆積する働きを積集という。深層の根源的な心である阿頼耶識が表層の業の結果である種子を堆積する働きをいう。又、業の結果である種子を集起する阿頼耶識が心であると解釈する。この場合には集起(じゅうき)といい、「集起の故に心と名づけ、思量の故に意と名づけ、了別の故に識と名づく。」といわれている。
 以上のように第七識を「意」というのは、第八識の積集(種子集起)の心と前六識の了別の識とを簡ぶためである。それは、第七識は積集と了別とにおいては劣っているが、恒審思量の働きに於いては増勝の義、すぐれた特徴があるから、第七識を意と表現するのである。
 
 次に第三に云く、
 「或いは此れいい、彼の意識の與(ため)に近き所依たりということを顕さんと欲して、故(かれ)但意とのみ名づけたり。」(『論』第四・十二左)
 (或いは第七識は、第六識のために近所依となるということを顕そうとして、ただ意とのみ名づけたのである。)
 近所依の三条件について、
 • 相順すること。 - 第六識と第七識は行相相順ずるからである。
 • 計度すること。 - 第六識と第七識は計度分別すること同じである。過去・現在・未来に対して思い計り推量し執着を起こすことをいう。
 •與力 - 第六識が認識対象を認識する時は第七識が力を与えるのである。
 「七が境を縁ずる時に第六いい力を与えるに非ざるなり。故に六には識有り七は但意と名づけたり。第八も亦ぢ六に力を与えることを簡ばんとして、故に復近と言う。彼をば、遠き所依と為すべきが故に。五十一に第八有るに由るが故に末那有り、末那を依として意識転ずることを得と云へり。故に彼の第八をば遠き所依と為し、此れをば近き依と為す。」(『述記』第四末・五十一右)という。
 以上で第一段 標名門(出能変体釈其名義)の説明が終わります。次からは第二段 所依門が説明されます。

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