唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (46) 第十一 見断等門 (2)

2016-03-27 18:48:43 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 「仏教は何を私たちに伝えているのでしょうか。「観経」第七華座観に「仏、当に汝がために、苦悩を除く法を分別し解脱したまうべし。」と。このお心を「安心決定鈔」に「如来浄華衆 正覚花化生」を釈して「法蔵菩薩の・・・心蓮華を、正覚華とはいうなり。これを「第七の観には、除苦悩法ととき、・・・凡夫の煩悩の泥濁にそまざるさとりなるゆえなり。・・・」(真聖P952)また、「斎しく苦悩の群萌を救済し」(総序)といわれています。善導大師は「但以れば娑婆は苦界なり。雑悪同じく居して、八苦相焼く。」(『観経疏』真聖全P514)といわれています。
 何故、娑婆は苦界といわれているのでしょう。善導大師に先立って曇鸞和尚は『浄土論註』に於いて述べておいでになります。
 「蚕繭(蚕と繭の譬)の自縛するが如し」(真聖全P285)自分で自分を縛ってやがて死に至るということですね。曇鸞和尚の機の深信といわれています。苦界を造作しているのは自分であったということですね。そのことを知らしめるのが法の働きなのでしょう。法が働いているからこそ、苦悩することが出来るんだと思います。苦悩を知ることに於いて転悪成徳する縁をいただくのです。それが智慧ですね。
 仏法は苦悩を除く法と明確に答えられています。苦悩は何故起こるのか、それは反逆ですね。道理に反逆している見返りに苦悩がもたらされているのであると。道理に背いているわけですから。唯識論ですと、末那識の問題になるわけです。」
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 煩悩の心所に於いて三断分別門が論じられていましたが、随煩悩の見断等門は煩悩の項に准じて説明されます。従って煩悩の三断分別門に遡って復習をしてみます。
 「此の十煩悩は何(イズレ)の所断ぞや」(『論』第六・二十一左)
 「述して曰く、此は問いなり。第九に三断門」(『述記』第六末・五十六右)
 問いから始まります。 
 第九・三断分別門
 三断とは、見所断と修所断と非所断をいいます。この十の煩悩は、そのいずれの所断なのかを問うています。
 見所断 ― 見道所断のこと。見道で断じられる煩悩を見惑といいますが、この見惑(分別起の煩悩)が断じられる法が見道所断といいます。
 修所断 ― 修道所断のこと。修道で断じられる煩悩を修惑といいますが、この修惑(倶生起の煩悩)が断じられる法が修道所断といいます。
 非所断 ― 見道でも、修道でも断じられるものではない法をいい、具体的には無漏法を指します。煩悩は有漏法ですから、非所断のものはありません。「述して曰く、此は即ち総答なり。諸染は皆断なり。然るに見・修に通ずるが故に、非所断に非ず。非所断の法は是れ染に非ざるが故に。」(『述記』第六末・五十六右)
 本科段の三断門は煩悩の心所に限らず、随煩悩の心所でも考究されてきます。また善の心所に於いても、離縛断(縁縛断)という断が考究されていました。有漏の善の有漏を断つことに於いて、善の心所を善たらしめることができるという方面から考究されています。
 見・修所断は、それぞれ、分別起の煩悩や倶生起の煩悩を断ずることに於いて、煩悩・随煩悩そのものを断ずるという方面から考究されます。
 「分別起のは唯だ見所断のみなり。麤にして断じ易きが故に。若し倶生のは唯だ修所断のみなり。細にして断じ難きが故に。」(『論』第六・二十一左) まず、分別起の煩悩は唯だ見所断であることが説かれます。
 分別起の煩悩といいますが、十の煩悩すべてが分別起なんです。即ち後天的に身についてくる煩悩ですね。「分別起の煩悩は悪友と邪教と邪思惟に由る」と云われていますように、後天的に身についた煩悩は断じ易いと説かれていますから、見道所断なんですね。ただね、正見を身に付けるということが大事です。正見によって分別起の煩悩は破られてきます。若し、破られてこなかったら私たちは間違ったことを正当化して生きざるを得ないのです。ここに一つも問題が生じてきます。躾とか教育のことです。赤ちゃんを育てていく中で、煩悩を押しつけていることに成ります。私たちは後輩に対しても、自分の意見を押しつけています。「こんな時はこのようにしたらいい」というようなことを平然と言っています。そういう意味では、煩悩を見つめる眼差しを持つ必要がありますね。私がしている躾や教育は本当に正しいのか(?)です。非常に怖いことですよ。知らず知らずの中に煩悩を蒔き散らかしているんですからね。だから、仏法を聞かなければならんのです。
 倶生は「身與倶」(ミトクナリ)、身をいただくと同時にということですが、これはお母さんの胎内にいのちが宿った時に、倶生起の煩悩も倶(トモ)にということなのです。この倶生起の煩悩は、細にして審らかにして深いんですね。ですから修断と云われています。倶生起の煩悩は姿をなかなか現さないのです。それに対して、分別起の煩悩はいつも顔をだしている。非常にわかりやすいものですから見断と云われているんでしょうね。倶生起の煩悩は衆縁を待つんです。種子の六義で学びました。待衆縁です。種子生現行が現行するには縁を伴って現れてくる。同じ縁を待って現れてくる分別起の煩悩とはその荒々しさが違うんです。水面下の波、表面に現れている波との違い、或は、打ち寄せる波と、後続の波との違いでしょうか。分別起の煩悩は背後には、必ず倶生起の煩悩が動いているということになります。倶生起は任運である。分別起は、要ず悪友と或は邪教の力と自ら審かに思察するとに由って方に生ずる。倶生起の煩悩が動いているといいましたが、具体的に何が動いているのかと云いますと、「諸煩悩生必由癡故」(諸々の煩悩の生ずるは必ず癡に由るが故に)。「癡」)(無明)が動いている。いついかなる時にも、煩悩が起こる時には癡と倶である。無明です。無明は無があきらかでない、ということですから、二空(我空・法空)が見えないことが闇と表現されているのです。「無明の闇」です。この無明の闇を破ってくる働きが「法」ですね。本願念仏の法です。ですから、本願念仏の法は、無明の闇の真っただ中に働いているのですね、この道理を聞くのが聞法です。法を聞くわけです。それが教えとして開かれてきたのが「宗」ですね。
 思察について、
 思察の思は思惟、察は観察(カンザツ)、思惟し観察することになります。倶生起の煩悩は任運にも、思察する時にも倶に生ずるからである、と。総・別についてはこの先の四諦に迷うの談で説明されます

 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿