唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 四分義(30)

2014-12-31 10:06:17 | 初能変 第二 所縁行相門
  
 月日の流れは旅人の如し、と云われますが、今年も多くの人に支えられて命をつなぐことができました。命をつなぐことは連続無窮の中で「命の尊厳」を教えられ、「命の尊厳」を伝えていく役割を背負った者として、今此処に生かされて在る命に手を合わせていく営みであろうかと思います。有難うございました。来年度もご指導よろしくお願い申しあげます<(_ _)>今日は本年度最後の投稿になります。
 友は僕にいろんな課題を与えてくれました。何故・何故・何故という壁にぶちあたり、厚い壁に跳ね返され、跳ね返されても・跳ね返されても、何故を問う姿勢には真摯な求道心が読み取れました。時には投げやりになり、時には自分の殻に閉じこもり、時には思いやりの心を発揮し、時には問う姿勢を見忘れて、紙一重の壁に突き返された一年であったように思います。友はもう一人の私であったのです。
      
      衆生無辺誓願度 (衆生は無辺なり。誓って度せんことを願う)
      煩悩無尽誓願断 (煩悩は無尽なり。誓って断ぜんことを願う)
      法門無量誓願学 (法門は無量なり。誓って学ばんことを願う)
      仏道無上誓願成 (仏道は無常なり。誓って成ぜんことを願う)

 仏道を歩む基本的姿勢を四弘誓願として仏陀は教えられていますが、僕は人間が人間として命の営みをする時、度・断・学・成が基本的姿勢でなければならないと思っています。そこには「一切衆生と共に」生きんという如来の慈悲と智慧が無量寿・無量光として表されている。
 如来と衆生が呼応した時、時を同じくして如来が誕生し、衆生が衆生として命を尽くすことができる瞬間ではないのか、と。

   聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転
   (其の名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまえり。彼の国に生れんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せん。)
 衆生の自覚(目覚め)は「唯除五逆 誹謗正法」(唯だ五逆と誹謗正法をば除く)という「除かれる存在」であることへの頷きであろう。
 衆生は迷いの存在、迷いは我を中心とした生き方で、自他分別をし、自尊損他という慢心を内に潜めた我見に依る自己依存症である。自己依存症の気づきが「念仏もうさんとおもいたつこころのおこる時」なのでしょう。摂取不捨は如来の分限、「唯除」は機の分限。唯除は、何故唯除されなければならないのかを問い聞くのが唯識の問題であると思いっています。
 来年度も、何故「唯除」されるのかを問う歩みを重ねてまいりたいと思います。

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 今日は四分説のまとめになります。
 「是の如く、四分を或は摂して三と為す。第四をば自証分に摂入するが故に。」(『論』第二・二十九右) このように四分を説いてきたが、相分・見分・自証分の三つで人間の認識を分けるという見方もある。自証分の後にある証自性分を第三の自証分に摂めて、人間の認識を考えることも出来る。何故このようにいえるのかという問いですが、『述記』には「果体一なるが故に」と説明しています。自証分と証自証分は互いに因と成り果となる相互後因果関係ですから、体一に摂して自証分に摂め、「四分を摂して三と為す」と結論しているのでしょう。
 「或は摂して二と為す。後の三は倶に是れ能縁の性なるが故に皆見分に摂む。此に見と言うは是れ能縁の義なり。」(『論』第二・二十九右) 
 今度は四分二と分ける分け方がある。後の三を纏めて見分の中に摂めてしまう。何故ならば、後の三は能縁であり、能縁は見分の働きであるからである。つまり、認識は相分と見分、所縁と能縁の関係で成立しているから二つにまとめることができるという。
 「或は摂して一と為す。体別なること無きが故に。」(『論』第二・二十九右) 
 或は、四分を纏めて一つとする。体ことなることがないからである。体は一つ、開いて四分になるということですね。心は一つであるという見方です。心はさまざまに動いている、その構造をみると四分という働きがあるけれども、本体は一つであるということですね。自体分です。すべての認識の根本は自体分に依る、それ以外の認識の在り方は虚像という遍計所執になりますね。
 この辺をもう少し丁寧に見ていこうと思いますが、本年度はこの投稿をもって閉じさせていただきます。ありがとうございました。<(_ _)>

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