唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (49) 第十一 見断等門 (3)

2016-03-29 21:00:50 | 第三能変 随煩悩の心所
 四月八日はお釈迦様の誕生日。 

 見修所断門
 中随煩悩の二と、大随煩悩の八は見所断なのか?修所断なのか?非所断なのか?について考察されます。

 「後の十は唯見修所断のみに通ず。二の煩悩と相応して起こるが故に。」(『論』第六・三十五右) (後の十(中随煩悩の二と、大随煩悩の八)は、ただ見所断と修所断のみである。非所断ではない。何故ならば、二の煩悩(分別起・倶生起の煩悩)と相応して起こるからである。)

 見断等門は大きく二つに分けられて説明されますが、中随煩悩の二と、大随煩悩の八の場合について更に三つに分けられて説明されます。
 (1)見修所断門
 (2)迷諦総別門
 (3)迷行親疎門
 本科段は(1)の見修所断門について説明されるところです。
 「二の煩悩と相応して起こるが故に」というのは、見所断のものは分別起であり、修所断のものは倶生起であるということです。つまり、後の十には分別起のものと倶生起のものがあるということを意味します。
 分別起のものは見所断であり、倶生起のものは修所断であると明らかにしているのです。

 次科段からは、四諦について迷う随煩悩について説明されます。
 (2)は「諦に迷する総と別となり。」(迷諦総別門)が説明されます。

「見所断の者は、諦相に迷う、或いは総、或いは別の煩悩に随って倶に生ず。故に所応に随って皆四部に通ず。」(『論』第六・三十五右)
 (見所断の中随煩悩と大随煩悩は諦相に迷う総迷、または別迷の煩悩に随って倶に生ずる。このためにその所応に随ってすべて四諦に通じて迷うのである。)

 見所断の中随煩悩と大随煩悩は四諦の行相に迷うのですが、中・大の随煩悩は、総じて迷う煩悩、別して迷う煩悩に随って相応して生ずると云われています。つまり、応じる所に随いすべては四諦に通じて迷うのといわれています。(
 煩悩の項で述べました、総迷と別迷についての所論を中・大の随煩悩においても適応させるというものです。
 
 少し総・別についての記述をみてみます。
 「然も諦相に迷うに総あり、別あり。」分別起の十煩悩(見所断の煩悩)が四諦の相に迷うのに総迷と別迷とがある。「総とは謂く十皆通じて四諦に迷う。即ち一々の煩悩皆起こる時に四諦の理に迷うを以って。又諸の煩悩は別の行相あり。・・・苦諦に迷う等、此れは一諦の下の別の行相なり。謂く此れ(苦諦)の諦下の見疑に随って、後に生ずるは(貪・瞋・慢)即ち此れ(苦諦)に迷すると名づく。」(『述記』)
 詳細は『大正蔵経』巻43・445b・cを参照してください。
 
  別解 (四諦に迷う分別起を説明する) 総迷と別迷にわけて説明されますが、その前に四諦について説明します。
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 四諦八正道について(東本願寺 『大乗の仏道』 より抜粋引用)
 「以上のごとく、釈尊の正覚の根本は縁起の理法であったが、その理法の意味するところを内観し覚知(自内証智)していくために説いた具体的な教えが四諦八正道として示されている。四諦とは苦・集・滅・道という師つの真理(諦)である。
 まず苦諦とは、人間の現存在が縁起であり、関係性においてのみおありうるにもかかわあず、そこに常・楽・我・浄の四顚倒(無常を常として執着することなど)を起こして、愛憎違順し苦悩している現実、すなわち、人間の現存在が苦として諦(まこと)であるということである。ちなみに、仏教において苦といわれるものは、四苦八苦で代表される、生・老・病・死の四苦と、それに愛別離苦(愛しいものとかれる苦)・怨憎会苦(憎いものにも会う苦)・求不得苦(求めて得られない苦)・五陰(五蘊)盛苦(心身にそなわっている苦)を加えた八苦である。また苦苦(それ自体が苦である飢えや病気など)、壊苦(楽が壊れて苦となること)、行苦(諸行無常であること)の三苦という分類もよく知られている。
 集諦とは、誤った執着によって苦が引き起こされてくるあり方、すなわち、執着によって苦が集起していることが諦であるということである。この集諦、すなわち、苦の原因といわれる誤った執着とは、まさしく先の演技摂の上であきらかにされたように、無明であり、渇愛である。これらは不可分の関係であり、輪廻流転の根本原因である。
 滅諦とは、縁起の理法によって人間の現存在が見直され、ありのままに知られるとき、誤った執着は止滅し、そこに苦悩の止めつが実現するということ、すなわち、苦悩の止滅したことで諦であるということである。したがって、滅諦とは解脱・涅槃のことである。
 道諦とは、その執着の止滅を証得するには、八正道を実践すべきであるということ、すなわち、歩むべき仏道が諦であるということである。
 その八正道は中道ともいわれる。中道とは、苦行主義と現世(快楽)主義との両極端(二辺)を離れることであり、それが解脱・涅槃への道であるとされている。この中道としての八正道とは、正見。正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
 (1) 正見   正しい見解。正しい見方。縁起や四諦に関する正しい智慧。
 (2) 正思惟  正しい思惟。正しい思考。
 (3) 正語   正しいことば。悪口やうそなどをいわないこと。
 (4) 正業   正しい身体的な行為。殺生や盗みなどをしないこと。
 (5) 正命   規則正しい生活
 (6) 正精進  正しい努力。既得の善を増大させ、未得の善を得ること。既得の悪を減じ、未得の悪を起こさないこと。
 (7) 正念   正しい思いをつねに心にとどめて忘れないこと。
 (8) 正定   正しい禅定(禅定はインド一般の修行方法であって、心を静めて精神を集中することである。その時の認識はすぐれたものとされている)
 このように四諦八正道はまさしく実践の体系であるが、先ず第一に、解決されなければならない課題としての苦を如実に知り、そして第二に、その苦の原因が無明・渇愛であることを知り、これら二諦によって輪廻流転n迷いの生存の全体を正しく理解することである。その上で、第三に、その課題の目標としての苦の滅が輪廻流転からの解脱・涅槃であるkとを知り、第四には、その苦の滅にいたる道、つまり解脱・涅槃 に到達すべき道であう八正道を実践しなければならないのである。」
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 総迷と別迷の所論は多くは分別起の煩悩について論じられますから、倶生起の煩悩について語られることは殆どありません。
 「第二に諦に迷う総・別なり。然るに見道の諦に迷う煩悩に於て総有り、別有り。」(『述記』)
 「然も諦相に迷うに総有り別有り。」(『論』第六・二十一左)
 しかも、分別起の十の煩悩が諦相に迷う迷い方に総迷という迷い方と、別迷という迷い方がある。
 「総と云うは謂く十種ながら皆四諦に迷するを以て、」(『論』第六・二十一左)
  総とは、つまり十種の煩悩が、十種ながら皆な(十種倶に)四諦に迷うことである。
 「即ち一々の煩悩がみな起こる時、四諦の理に迷するなり。又諸の煩悩には別の行相有り。」(『述記』)
 『述記』によりますと、総迷には、数の別と、行相の別があることが指摘されています。「今此の論の総に二種あり。一に数の総なり。・・・・・二に行相の別なり。」
 『論』には総・別ありとしか述べられていませんが、『述記』には総にも二種あることが明らかにされています。つまり分別起(見所断の煩悩)の十煩悩が四諦に迷う有り方に二種(数の総と、行相の総)あることを明らかにしたのです。総の概説は、一々の煩悩がすべて起こる時に四諦の理に迷うことが総迷なのです。その中で、すべて起こる時ですから、四諦の一々に十煩悩がすべて迷うのが数の総であり、諦ごとに各々十煩悩を具すことをいいます。次に行相の総とは細にわたって説明されていますが、十煩悩すべてに四諦に迷う功能があることであり、これは、一の諦下の別の行相であることをいい、四諦の中の複数の諦に十煩悩が等しく迷う行相をもっていることを、行相の総といっています。行相とは見分のことで、十煩悩が複数の諦に迷う働きをもっていることなのです。
 「二に行相の総なり。通じて四諦に迷するものあるが故に。此れに由ってニニに迷するに六有り。三々に迷するに四有り。総迷に一有り。」(『述記』)
 ・「ニニに迷するに六有り」とは、四諦の中の諦二つの諦の組み合わせに六通りあるということです。
(1)苦諦・集諦 (2)集諦・滅諦 (3)滅諦・道諦 (4)道諦・苦諦 (5)苦諦・滅諦 (6)集諦・道諦 の六ケースがあるということになります。二つの諦に迷う有り方に六つのケースがあることですね。
 ・「三々に迷するに四有り」とは、四諦の中の三つの諦の組み合わせに四通りあるということです。
(1)苦諦・集諦・滅諦 (2)集諦・滅諦・道諦 (3)滅諦・道諦・苦諦 (4)道諦・苦諦・集諦の四つのケースがあるということです。
 「総迷に一有り」とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦の四つに対して総じて迷う有り方で、一つのケースしか無いのです。
 十煩悩が四諦に迷う有り方には、十一通りあるということになります。細部(三界)にわたるケースを考えますと、二二の場合は、欲界では6×10で60。色界・無色界では瞋は存在しませんから、6×9で54。54×2で108になり、二二に迷う有り方は、三界においては60+108で168通りあるということになります。三々に迷う場合ですが、4×10で40.4×9×2で72。72+40で112通りあることになります。「総に迷う」が一ケースですので、欲界に十通り、色界・無色界に9通りありますから、9×2で18通り、18+10で28通りあるということになります。
 此れは何を表しているのかといいますと、因と依処の関係を指しているのです。
 「何を以て十種ながら、皆よく四諦に迷するや。苦集はこれ十の因と依処となるが故に。一にこれ因なり。二にこれ依処なり。・・・」(『述記』)
 う~んややこしいですね、頭が混乱をきたし、こんがらがってしまいますが、暫くお付き合いくださいよ。これほど根本煩悩の十が複雑に絡まり合って迷いを生起させているんですね。四諦の理に迷う在り方とはこのようなことだと教えられます。
別迷については後程にしましょうか。


 

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