唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (46) 第十 学等門 ・ 第十一 見断等門 (1)

2016-03-25 00:07:12 | 第三能変 随煩悩の心所
 こうして見所断が88、修所断が10、合計98になります。これが九十八随眠です。そして、これに十纏(じってん)を加えて108になり、百八煩悩となるわけです。
 
 第十は、三学分別門(学等門)について。
 随煩悩の二十の学等分別を述べます。
 
 「二十は皆、学と・無学との摂に非ず。此れは但是れ染のみなり。彼は唯、浄のみなり。」(『論』第六・三十五右)
 (二十の随煩悩はすべて有学や無学ではない。この二十の随煩悩はすべて非無学である。何故なら、此の二十の随煩悩はただ染であるが彼(有学と無学)はただ浄のみである。)

 ここでいわれています学は仏教の学びである三学(戒学・定学・慧学)を指すのではありません。
 有学・無学・非学非無学をいいます。有学はまだ学ぶことの有る者で、阿羅漢果(無学位)までに至っていない聖者を指します。無学は阿羅漢果の位に達した聖者をいい、非学非無学は凡夫を指します。修行段階に入っていない一般の有情を含め非無学といいます。しかし非無学といいましても「善の心所のすべてが、皆、三学に起こりえると(生起する)いわれているのです。すなわち、欲界の有情で有っても善の心を起こし得ることがあるといわれているのです。このことは「一切衆生悉有仏性」という大乗仏教の根幹を成す、私の中にも仏に成る可能性が秘められていることを示唆していると思います。どんな境遇にあっても、その境遇を引き受けていける身に育てられることへの目覚めがあるということです。順境・逆境にあっても、その境遇が法に遇う縁になるという事だと思います。
 三学分別門でいう随煩悩は非無学の存在である。それはただ染の存在(不善と有覆無記)だからというのです。有学と無学は浄(善)の存在であるからといいます。要するに随煩悩は不善と有覆無記に摂められるので、その限りにおいては非無学といわれるのでしょう。しかしその中にも一点の光が差し込んで善を起こすことが有るという事が大切な意味をもつのではないでしょうか。非無学という自覚が染の中に善を見出す縁になるのでしょう。しかしながら随煩悩そのものは、染ということで、非無学なのです。
 
 十一は、三断分別門(見断等門)について
 
 「後の十は唯、見・修所断のみに通ず。ニ(分別・倶生)の煩悩と相応して起こるが故に。」(『論』第六・三十五右) 
 (後の十の随煩悩はた見と修所断のみであり、非所断ではない。何故なら、この中随煩悩の二と大随煩悩の八は、二の煩悩である分別記と倶生起の煩悩と相応して起こるからである。)

 ・見所断(けんしょだん)-見道所断の略。見とは四諦を見るの意。四諦の道理を見通すことにおいて煩悩が断たれることで、見道位によって断ぜられるべきもの。
 ・修所断(しゅしょだん)-修道所断の略。修道位によって断ぜられるべきもの。修は三昧を修して真理の観知を繰り返し行うこと。
 見断等門は二つに分けられます。
 第一は、中随煩悩と大随煩悩の場合について説明されます。
 第二は、小随煩悩の場合について説明されます。
 中随煩悩の二と大随煩悩の八について論じられますその一は、さらに三つに分けられて説明されます。
 •第一は見所断と修所断と非所断の三断のいずれかに摂するのかと云う事の考察です。(見修所断門)
 ・第二は見所断の中随煩悩と大随煩悩にちて総迷か別迷科について説明されます。(迷諦総別門)
 ・四諦に迷う行相の親疎について説明されます。(迷行親疎門)
 本科段は第一の一の説明になります。
 「見所断の者は、諦相に迷う、或いは総、或いは別の煩悩に随って倶に生ず。故に所応に随って皆四部に通ず。」(『論』第六・三十五右)
 「諦に迷する総と別となり。(皆四部に通ず。所依)止たる前の能所引生の煩悩に(随い)、」あるいは所縁に随って以って四諦に分かつ。四諦下の煩悩の引生するに依り、依止として仮立するが故に。」(『述記』)
 見所断の中随煩悩と大随煩悩は四諦の行相に迷うのですが中・大の随煩悩は、総じて迷う煩悩、別して迷う煩悩に随って相応して生まれるのです、といいます。よって応じる所に随いすべては四諦に通じて迷うのといわれています。(註ー選註『成唯識論』P136巻第六に詳細が示されています。)少し総・別についての記述をみてみます。  九行目からです。「然も諦相に迷うに総あり、別あり。」分別起の十煩悩(見所断の煩悩)が四諦の相に迷うのに総迷と別迷とがある。「総とは謂く十皆通じて四諦に迷う。即ち一々の煩悩皆起こる時に四諦の理に迷うを以って。又諸の煩悩は別の行相あり。・・・苦諦に迷う等、此れは一諦の下の別の行相なり。謂く此れ(苦諦)の諦下の見疑に随って、後に生ずるは(貪・瞋・慢)即ち此れ(苦諦)に迷すると名づく。」(『述記』)詳細は『大正蔵経』巻43・445b・cを参照してください。「数の総」(諦ごとに各十を具す)・「行相の総」(通じて四諦に迷するものあるが故)・「数の別」(集・滅・道、三諦に八あり。身辺を除く。苦、一諦に十あるが故)「行相の別」(各々に別に迷するが故)
 見惑(88)についてですね。要するに総じて迷うという事は、十の煩悩がすべて四諦に迷うということになり、別して迷うという事は、十の煩悩がすべて揃わなくても別々である迷い方ということになります。集・滅・道の三諦に迷うのは有身見(薩迦耶見)と辺見(辺執見)を除いた八煩悩であり、有身見(薩迦耶見)と辺見(辺執見)のニは苦諦のみに迷うと云われます。「一諦に十有り」は一諦に十の根本煩悩があるということですね。有身見(薩迦耶見)と辺見(辺執見)は三界を通じて苦諦のみに迷うという事ですが、邪見と見取見は三界を通じて四諦すべてに迷うのです。戒禁取見は三界を通じて苦諦と道諦に迷うと云われます。迷うという事は理解ができないということで、有身見(薩迦耶見)と辺見(辺執見)は集・滅・道諦は理解ができるが苦諦は理解ができないということになります。見惑で見道まで続きます。悟りを開いた時点で消えると云われます。消えないのが修惑(10)といわれるもので、それに十纏(中ニ・大随煩悩八)を加え百八煩悩ということになるんです。これは『倶舎論』の記述です。唯識では百二十八の煩悩を数えます。見惑(112)は分別起・修惑(16)は倶生起の煩悩と云います。ここでは悪見の五はすべて三界を通じて四諦に迷うといわれています。 
 

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