唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 能変差別門 (24) 諸根互用 

2012-08-13 20:46:13 | 心の構造について

 『樞要』の説明。

「隨境立名依五色根未自在等者。問一境 多識取。果位但隨根。一根取多境。不可隨根稱 答一識境成多。不可隨境稱。所依根但一。隨根立識名。此義應思。太難 諸根互用者。有二異説。第一師云。實能縁諸境。於中有二義。一義云。一一識體轉用成多。非轉法體。故非受等亦成想等。取像之用一切無遮。不可難以大種爲造。彼轉體故。如第八縁五塵。亦得自在不可難言壞根不壞境等 二義云。恐壞 法相。但取自境皆是實境。所取他境皆是假境。以識用廣非得餘自相。恐眼・耳根得三塵時。若至能取壞根不壞境。若不至能取。壞境不壞根。餘三根取色・聲亦爾。皆有此過故 第二師解云。一一根處遍有諸根各自起用。非以一根得一切境。以諸根用各遍一切故名互用。不爾便成壞法相故。心王亦應有心所用而取別相等。」(『樞要』巻下本・二十八右。大正43・641a)

 (「境に随って名を立てたるは、五色根が未自在なるに依る」等とは

 問。一の境を多の識取ると云う。果の位には但だ根に随ってと云わば、一の根、多境を取る。根に随って称すべからざるや。

 答。一識に境多を成ずるを境に随って称すべからず。所依根但し一なれば、根に随って識の名を立つることは、応に思うべし。太だ難し。

 「諸根互用」とは二の異説有り。第一の師の云く。実に能く諸境を縁ず。中に於て二義有り、

 一義に云く、一一の識体なり。用を転じて多を成す。法体を転ずるには非ず。故に、受等亦想等を成ずと云うには非ず。像を取るの用は一切遮することなし。大種を以て造と為すと難ずべからず。彼は体を転ずるが故に。第八の五塵を縁じて亦自相を得るが如きを。難じて根を壊して境を壊せず等とは言うべからず。

 二義に云く、法相を壊せんかを恐る。但だ自境を取るには皆是れ実境なり。所取の他境は皆是れ仮境なり。識の用広なり、余の自相を得るに非ざるを以て、恐らくは眼・耳根が三塵を得る時に。若しは至って能取は根を壊して境を壊せず。若しは至らず能取は境を壊して根は壊せず。余は三根が色・声を取ることも亦爾なり。皆此過有るが故に。

 第二の師解して云く。一一の根の処に遍ねく諸根有す。各々自ら用を起こす。一根を以て一切の境を得ることには非ず。諸根の用各の一切に遍ぜるを以て、故に互用と名づく。爾らずんば便ち成ず。法相を壊するが故に。心王にも亦心所の用有って別相の等を取るべしと。」)

 「諸根互用」というのは、識自体が自境のみならず他境をも認識することである、と説明されています。「自境を取る」というのは、自境を認識するという意味になります。ですから、諸根互用は自境のみならず、他境をも認識するということになります。ここに問いが出されています。眼識の所依である眼根も、色境のみならず声・香・味・触の他の境も認識する働き(用)を持つようになるのか、それとも、根は諸根互用となっても他境を認識せず、自らの境(例えば、眼根の場合は色境のみという)のみを認識し続けるのかという問題です。答えられるのが、各識が、五境ともを認識するようになることであるといわれています。未自在位の時(随境得名)には、自らの境しか認識しなかったのが、自在位になると他の四境をも認識するようになる、と。「眼は口ほどにものを云う」とかですね、或いは、香道では「匂いを嗅ぐ」とはいわないですね、「匂いを聞く」といいます。五体で一切を感じるわけです。こういうような状況を述べているのですね。論理的には、識が他境を認識するのは根に依るわけですから、もし根が他境を認識することがないならば、識も他境を認識しなくなるであろうと、説かれています。

 尚、『了義燈』にはさらに敷衍してこの問題に答えていますので、次回に考えてみます。


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