唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (26)

2017-02-21 21:25:47 | 阿頼耶識の存在論証
  

 随分脱線をしております。
  第二能変の所依門から、増上縁依(倶有依)について述べています。
簡単に述べますと、
 前五識は、五根と第六識・第七識・第八識を倶有依とし、第六識は第七識と第八識を倶有依とし、第七識は第八識を、第八識は第七識を倶有依とする、と。第七識と第八識の倶有依が人間として非常に大切なことを教えています。「第七識の倶有所依は、但一種のみ有り。謂く第八識なり。蔵識若し無き時は定めて転ぜざるが故に」と説かれ、また、「阿頼耶識の倶有所依も、亦但一種のみなり。謂く第七識なり。彼の識若し無き時には定めて転ぜざるが故に。」と説かれ、深層意識の中で利己性に染汚された識が根本識に蓄積され、染汚されたままの識が表層の意識に伴って前五識が働いてくるのですね。これが迷いの構造になるわけです。
 倶有依とは同時に存在する所依を指しますが、あるものが生じる時、そのものと同時に存在してそれを生じる依り所、その因を倶有依という。眼識の倶有依は眼根、乃至、意識の倶有依は意根であると『瑜伽論』巻一(大正30・279a) に説かれています。
 「何等名爲五識身耶。所謂眼識耳識。鼻識舌識身識。云何眼識自性。謂依眼了別色。彼所依者。倶有依謂眼。等無間依謂意。種子依謂即此一切種子。執受所依。異熟所攝阿頼耶識。」 
(「何等をか名づけて五識身と為すや、所謂眼識・耳識・鼻識・舌識・身識なり、云何んが眼識の自性なるや、謂く眼に依って色を了別(了知弁別)するなり。彼(眼識)の所依とは三あり、倶有依は謂く眼根なり、等無間依は、謂く意根なり、種子依は謂く即ち此れ一切種子を執受する所依にして、異熟に摂められる阿頼耶識なり。」)
 『論』には倶有依についての解釈が四有りと述べられています。第一説から第三説が異説であり、第四説が正義を述べる護法の説になります。概略を示しますと(『述記』による)
• 第一説 難陀等の説で前五識は第六意識を倶有依とし、第六識は第七末那識を倶有依とするが、第七識・第八識には倶有依はないとする。
• 第二説 安慧等の説で前五識は五色根と第六意識を倶有依とし、第六識は五識と第七末那識を倶有依とし、第七識は第八阿頼耶識を倶有依とするが、第八識には倶有依はないとする。
• 第三説 浄月等の説で前五識は五色根と第六意識を倶有依とし、第六識は五識と第七末那識を、第七識は第八阿頼耶識を倶有依とする。ここまでは安慧等の説と同じですが、第八識の倶有依を浄月等は第七末那識と色根と第八阿頼耶識の現行と七転識の現行を倶有依とすると説きます。
• 第四説 護法等の説で正義とされます。前五識は五色根と第六意識と第七末那識と第八阿頼耶識を倶有依とし、第六識は第七末那識と第八阿頼耶識を倶有依とし、第七識は第八阿頼耶識を倶有依とする。そして第八識は第七末那識を倶有依とすると説かれます。
 今は、護法正義について述べます。
 「自下は第四に護法菩薩の解なり。中に於いて三有り。一に総じて前師を斥し、二に義を申べて指し、三に総じて正を結す。」(『述記』第四末・八十五右)
 (第四説は護法菩薩の正義を述べる。これが三つに分けて説かれる。初めには前師(難陀等・安慧等・浄月等)の説をしりぞける。次に自説をあげる。終わりにまとめて正義を結ぶ。)
 護法は倶有依説に対して前三師の説は理に応ぜないというのです。何故ならば、前三師は法に所依と依との別があることを未だ理解していないからである。詳細は次の科段で示されますが、簡略しますと、依とは、すべて有為の諸法が因に杖し、縁に託して生じ住することができるものすべてを依と云う、と。故に広く四縁に通ずると云う。そして所依と云う場合には、次に述べられる四義を具さなければならないとする。(所依の四義 - (1) 決定の義、 (2) 有境の義、 (3) 為主の義、 (4) 心・心所をして自ら所縁を取らしめる義。)
 「依とは、謂く、一切の生滅を有せる法が、因に杖し縁に託して、而も生じ住することを得。」(『論』第四・十九左)
 (依というのは、一切の有生滅の法が、因に杖し縁に託して生じ住するという、お互いに支えあい助け合って一つのものができていることを指す。)
 一切有生滅の法は、因(因縁)と縁(等無間縁・所縁縁・増上縁)によって生じ存在する。その生じ存在することを成り立たせている四縁をまとめて「依」というのである。
 依とは、四縁すべてをいう。現象世界は有生滅であり、現象世界を成り立たしめているものが四縁ということになります。依という場合には、広く因縁に通じる概念で四縁全体をあらわす。「一切有為の諸法は因縁より生ず。」と。
 所依は依であるが、依は必ずしも所依ではない、という。所依には四義が備わっていなければ所依とはいわれない、といわれていますが、依は「すべて有為の諸法が因に杖し縁に託して生じ住する(因に杖するから生といい縁に託するから住という)その所杖託のものを皆依という。」故に依とは広く四縁に通ずるのである、と。喩えとして「王と臣と互いに相依る」といわれています。存在の更互相依性を言い当てているのです。
 しかし、『述記』の喩えは「王と臣が互いに相い依るようなものである」というのですが、これは有為法同士の場合にはこの喩えでいいが、有為法と無為法の場合には「相依」という喩えには問題があると指摘しています。それは「無為法は有為法のために依となるが、有為法は無為法のために依とはならない」から「相依」とはいわれないんだということです。
 所依(倶有依)と云う場合は、
 所依という場合には、四義を備えなければならないといい、依と区別をしています。依は一般的な法則。存在するものはすべて縁に依って生じているものでしたが、所依と言う場合には一般的な法則ではなく、心の問題を捉えて主体的に「自己」の問題を考えていくのです。
 「若し法が決定せり、境を有せり、主たり、心心所をして自の所縁を取ら令む、乃ち是れ所依なり、即ち内の六処ぞ、」(『論』第四・二十右)
 (もし法が決定し、境を有し、主となり、心心所に自の所縁を取らせるならば、これが所依である。即ちこれらの条件を備えているものは内の六処である。)
 諸識の倶有依(所依)には四義が備われなくてはならないとし、その四っの条件とは
• 決定 - 法(存在一般)が決定している。
• 有境 - 境を有するもの。
• 為主 - 種となるもの。
• 取自所縁 - 心・心所をして自らの所縁を取らしめるもの。(詳細については2011年 4月9日~4月12日のブログを参照してください)
 で、本文では「決定せり、境を有せり、主たり、心心所をして自の所縁を取ら令む、」と述べられています。そして具体的には「即ち内の六処」である、といわれています。内の六処とは五根と意根ですね。『論』には具体的な内容は示されていませんが、『述記』・『演秘』・『樞要』・『了義燈』に詳細が示されています。
 所依という場合は心・心所に限る問題であると。心の問題に限定されるわけです。非常に主体的に問題を捉えるあり方が強調されます。自己は決定して有るものであり、境を有し、主であり、自らの所縁を認識しているわけです。これらの四義を備えているものが、内の六処(内の六根)であると。内の六処とは、五根と意根(第六識・第七識・第八識)である。少し先走りをしますと、

 「五識の倶有所依は、定めて四種有り。謂く五色根と六・七・八との識なり。・・・第六意識の倶有所依は唯二種のみ有り。謂く七と八との識なり。・・・第七意識の倶有所依は、但一種のみ有り。謂く第八識なり。」と説明され、其の中の一種でも欠けると心は動かない、と。そして「第八なくば第七転ぜず、第七なくば第八転ぜず。」といわれ、深層意識の第七・第八識が背後にあって前五識および第六意識が働いてくるわけです。存在の構成要素が前五識で感覚ですね。その依り所が五根になります。身体です。身体が依り所になって感覚が働くわけです。そしてその感覚を司るのが心の問題で、第六・七・八識になるわけです。身と心の問題です。身と心は一つのものですね。ここが非常に大事なところで身と心は離れてあるものではないということを、心・心所を通して明らかにしているのです。「依」という場合は「つながりを生きる」というような「法」を指します。諸行無常という法ですね。しかし、その法に迷っているのが私たちです。何故迷っているのかを明らかにするところに所依の問題が提起されるのです。主体の問題です。内の六処(五根と意根)に依って迷っているわけです。
 五識の倶有依についての護法の説は、 
 眼等の五識の倶有依とは何であるのかという問いに対して護法は眼等の五識の倶有依は五色根と第六・第七・第八識の四種であると答えています。
 (第七識に依るを証す。)
 「何が故に七を以て依と為すを知ることを得るや。」(また何故に第七識を以て五識の倶有依とするのであろうか。)
 「『無性摂論』第一に第七有りと証するが中に言うが如し。謂く若し染汚に意有りと説かずば義符順ぜず等といえり。此れが中の意の言く、第七識の染有るに由るが故に、施等の有漏の善法無漏と成らず、彼の染識の所漏と為るが故に、・・・」(『述記』)
 『無性摂論』第一に説かれている。五識が第七識を倶有依と証している中に、五識が有漏であることは、染汚である第七識を倶有依としているからである。第七識の染汚あるに由って前六識が起こす布施等の善法が有漏になり、無漏とはならないのである。五識が有漏であるということは第七識の染汚の影響によるものであり、よって五識は第七識を倶有依としていることがわかる。『世親摂論』第一にも同様の主旨が説かれており、「故に知んぬ五識が有漏を成ずる中に、其の第七識乃し彼未だ究竟して滅せざるに至までは、終に無漏と成らず。・・・故に五識は有漏なり。」と。第七識が転じて平等性智に成るに至までは五識は有漏であり、無漏とはならないのである、と。
 (第八識に依るを証す。)
 「何を以て亦第八にも依るということを知るを得とならば、」
 「『世親摂論』第一に五(識)を同法という中に、彼の五識身は五根と阿頼耶識とをもって倶有依と為すこと、此れも亦是くの如し」
 (第八阿頼耶識を倶有依とすることは、「『世親摂論』第一にに説かれている通りである。五識身は五根と第八識を倶有依として説かれている。)
 「・・・『瑜伽』(巻第五十一)と『顕揚』(巻第十七)とに亦説かく、阿頼耶識有るに由るが故に色根を執受す。五識の識身之に依って転ず等といえり。又『顕揚』第一に阿頼耶識を解して転識等が與に所依因と作ると云えり。此の文は亦六・七が與に依と為ることをも証す。・・・故に知りぬ、五識は本識を以て共の所依と為すということを。」(『述記』)
 第八識は諸識の根本で、根本識といわれます。ですから根本識と七転識は共依の関係です。従って第八識は五識の倶有依であることがわかるのである。
 以上が五色根・第六識・第七識・第八識が五識の倶有依であるという理由を概略しています。
 五色根と第六識と第七識と第八識のうちの一種でも闕いたときには五識は転じない。また同じ倶有依であっても五色根は五識の同境依であり、第六識は五識の分別依であり、第七識は五識の染浄依であり、第八識は五識の根本依であるという所依の種類の別がある。五色根と第六識と第七識と第八識の四つはすべて五識に対して力があり、四義を備えている為に、この中の一つでも欠いた時には五識は転じることはないと説明しています。
 以下は次回にします。
 次に第六識は五識の分別依と為ることを述べます。 
 次に第七識は五識の染浄依と為ることを述べます。
 次に第八識は五識の根本依と為ることを述べます。
六識の倶有依について
第七識の倶有依について 

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