唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (53) 第十一 見断等門 (7)

2016-04-05 22:50:02 | 第三能変 随煩悩の心所
   天上天下唯我独尊

「諦に迷う親・疎等は皆煩悩に説けるが如し。」(『論』)
 (煩悩の項)『選註 成唯識論』p136~p137を参照してください。「総或は別の煩悩に随って」という「別」は、
 「別と云うは謂く別に四諦の相に迷いて起こる。ニは(身見・辺見)唯苦(諦)のみに迷い。八は通じて四(諦)に迷う。身・辺ニ見は唯果處のみに起こる。別の空と・非我とは苦諦のみに属せるが故に。
 謂く疑と・三見(身見・辺見・邪見)とは親しく苦(諦)の理に迷う(親迷)。ニの取(見取見・戒禁取見)は彼の三の見(身見・辺見・邪見)・戒禁と及び所依の蘊(五蘊と心身)とを執して、勝なり能浄なりと為す(勝れたものであり、よく浄らかにするものである・疎迷)。」
 これ等は、涅槃・解脱に関する誤った考え方になります。親鸞聖人は『信巻』(真聖p251)に悪見を「偽」として
 「「偽」と言うは、すなわち六十二見、九十五種の邪道これなり。『涅槃経』(如来性品)に言わく、世尊常に説きたまわく、「一切の外は九十五種を学びて、みな悪道に趣く」と。已上(法事讃)光明師の云わく、九十五種みな世を汚す、ただ仏の一道、独り清閑なり、と。已上」
 悪見の依り所が自我の執心なのです。ですから自我が悪いわけではないんです。自我に執する心が悪見を生み出してくる根拠になるわけですね。自我は非常に大切なものです。自我があって初めて生き得ることができるわけですから、自我を否定してしまいますと、たちまちに生きることが出来なくなります。
 自我に執着して、執着した心が正しいと思い込んでいる自分が居るわけです。それが自己を顧みない執着心なのです。
 ここに目覚めよと宗祖は教えておいでになるんだと思います。執着心が心身のバランスを崩してくるのですね。仏教は五蘊仮和合と教えていますが、あらゆる器官のバランスの上に身心が機能していると云えます。身心の根っこに執着しますと、医学でいうところの、自律神経系・内分泌系・免疫系に異常をきたし健康を阻害してくるのでしょう。ストレスによる健康障害と云われています。
 余談になりましたが、
 ここでいわれることは、四諦を直接的に認識をして迷うのを親迷といい、間接的に迷うのを疎迷といっているのです。
 「仏教では、いうまでもなく正しいものの見方(正見)と戒律を非常に重んじます。ところが自分たちのものの見方(思想・宗教)や戒律に執着しこだわることは根本的な煩悩だとしています。これは、初めて学んだときは驚きでした。あらゆる宗教やイデオロギーが陥りがちな自己絶対化の危険にみごとなまでにしっかり気づいていて、それに対する厳しい警告をしているのです。」(岡野守也師ブログより)
 凡夫の心の底に常に濁って我が身・我が物という我執・我所執(我執があるから所執が生まれてきます)という差別の執を失わない末那識による顛倒の見に陥る危険性を指摘されています。「諦に迷う」には迷う理由があるという事ですね。法を拠り所として諦を明らかにするのも道理ですが、我執を拠り所にして諦に迷うのも道理なのです。ですから我見がまかり通っているわけです。

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