唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 起滅分位門 滅尽定 (9)

2010-12-11 22:55:18 | 五位無心

 第三能変 起滅分位門 ・ 五位無心 ・ 滅尽定 (9)

 ― 滅尽定について、末那識における安慧と護法の対論 ―

 護法の正義を述べています。安慧の説に対して、九の過失をあげて批判している第二・違量の失について因明の法式に則って論証しています。

 「無染の意識は有染の時の如く、定んで倶生なり、不共なる依有るべきが故に」(『論』第五・四右)

 「述曰。彼れ有学の出世道の現前と及び無学の位との有漏・無漏の第六意識は皆第七の依無しといわば、此れ等の無染の意は定んで倶生なり。不共なる所依有るべし。次第に逆に第八と及び無間縁と種子との等を簡ぶ。なり。是れ意識なるが故に、有染の時の意識の如くと。論には因を闕きたり。下の六の証の中に自ら具に量を作れり。故に此には言略せり。」(『述記』第五本・八十三左)

 量とは判断・認識の根拠ですね。自らの主張や命題が正当であるとする根拠です。因明では立量といい、「自ら(護法)が量を作る」と記され、「論には因を闕きたり」と。因が記されていないと明記しています。

 宗 - 「有学の出世道の現前と及び無学の位との有漏・無漏の第六意識」(有法)には、不共依(第七識)が有る(法)。

 因 - 「是れ意識なるが故に」

 喩 - 「有染の時の意識の如く」

 この量によって安慧が主張する聖道及び無漏の時にも末那識が存在しないという説は誤りである、という。第六意識は有漏・無漏と問わず第六意識の存在は根本識に依止しているわけです。阿頼耶識を所依とし、末那識を不共依としているわけですから、第六意識が存在している以上、末那識は存在しているはずであるから、安慧の説である、聖道・無漏には末那識は存在しないというのは過失であると批判しているのです。これが違量の失といわれています。 次は第三の失(違瑜伽の失)が挙げられます。 (未完) 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿