唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 散乱(2)異説

2015-12-14 23:39:58 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 三師の異説が述べられます。第三師の説が護法の正義になります。
 第一師の説、
 「有義は、散乱は癡の一分に摂めらる、瑜伽に此は是れ癡が分と説けるが故にと云う。」(『論』第六・三十左)
 (第一師は主張する、散乱は癡の一分である、と。その理由は癡の一分からである。)
 『瑜伽論』巻第五十五の所論を挙げ、そこには「妄念と散乱と悪慧は癡の一分なり。」と説かれていることを以て教証とし、自説の正当性を主張しているわけです。

 第二師の説は、第一師の説を否定しつつ、自説の正当性を説いていきます。
 「有義は、散乱は貪・瞋・癡に摂めらる、集論(じゅうろん)等に是れ三が分と説けるが故に、癡が分のみと説けることは、染心に遍せるが故に。」(『論』第六・三十左)
 (第二師は主張する、、散乱は貪・瞋・癡の一分である、と。何故ならば、『集論』及び『五蘊論』に「(散乱は)貪・瞋・癡の一分である」と説かれているからである。散乱が癡の一分であるとのみとかえているのは、癡が染心に遍く存在していることから説かれているからである。)
 第二師は、第一師の説を会通しているわけです。第一師が自説の正当性を述べるために採用した『瑜伽論』巻第五十五の所論の、「癡のみが染心に遍く存在している」と云うのは、染心に遍く存在する視点から『瑜伽論』では散乱は癡の一分である説いているのである、と会通しているのですね。つまり、貪・瞋は染心には遍く存在せず、癡のみが染心に遍く存在することから、散乱は癡の一分であると説かれ、貪と瞋が散乱の一分ではないと説かれているのではないと主張しているのです。
 第三師の護法の正義は明日考えたいと思います。 おやすみなさい。

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