唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 散乱(2)補足と護法の正義(しょうぎ)

2015-12-15 20:50:21 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 第二師が、散乱は貪・瞋・癡の一分であるという理論的根拠を説明します。
 「謂く、貪・瞋・癡いい心を流蕩(るとう)なら令むること余の法に勝れたるが故に、説いて散乱を為すという。」(『論』第六・三十一右) (つまり、貪・瞋・癡は心・心所を流蕩ならしめることが他の心所より勝れていることから、説いて(心・心所を流蕩ならしめる働きを以て)散乱の心所として立てるのであると、第二師は主張する。)
 「述して曰く、此の三の法(貪・瞋・癡)は心をして流蕩なら令むること、慢等の法に勝れたるが故に。是れ不善根が故に、行相數々(ぎょうそうさくさく)猛(みょう)なるが故に。」(『述記』第六末・八十六右)
 數々 ― とだえることなく。
 猛 ― はげしいこと。猛焔(みょうん)・猛火(みょうか)・猛香(みょうこう)・猛盛(みょうじょう)・猛利(みょうり)等の熟語があります。
 貪・瞋・癡の働きは三不善根でありますから、その働きはとだえることなく猛々しく、心をして流蕩なら令むること他の心所(慢等に)に比べると強力であることから、散乱は貪・瞋・癡の一分であると云うのですね。

 護法の正義を述べる。
 「有義は、散乱は別に自相有り、三の分と説けることは、是れ(散乱)彼(貪・瞋・癡)が等流(とうる)なるをもってあり、無慚(むざん)等のごとし、即ち彼(貪・瞋・癡)に摂するものには非ず、他の相に随えて説いて世俗有(せぞくう)と名けたり。」(『論』第六・三十一右)
 第三師(護法)の説は、四つに分けられて説明されます。
  初に、標挙して文を会す。(護法の正義を挙げ、護法の正義と他の文献が相違していることを会通します。)
  二に、正を申す。(護法正義を述べる)
  三に、前を破す。(第二師の説を論破する。)
  四に、別を顕す。(掉挙(じょうこ)と散乱の相違を説く。)
 上記の文は初になります。
 護法は主張する。散乱には別個の自相がある、と。散乱が三つ(貪・瞋・癡)の一分と説かれているのは、散乱が貪・瞋・癡の等流であるからである。それは無慚等のようなものである。無慚等が実際には固有の自体を持つ心所であるが、『対法論(雑集論)』等には「三(貪・瞋・癡)の一分である」と説かれているのと同じ論法であり、即ち散乱は貪・瞋・癡の一分ではなく、実法であって、何らかの心所の一分であるという仮法ではない。
 散乱を仮法(世俗有)であると説いている文献(『瑜伽論』巻第五十五)があるのは、他(癡)の相に随えて仮法であると説いているだけである。
 護法は言う。散乱の心所は、仮法ではなく、散乱固有の自相を持つ実法である、と。
 護法正義の内容につきましては、明日にします。

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