唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『自己に背くもの』 安田理深述 (18) 虚妄と実相 

2011-12-11 13:35:49 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 ここに問題は業というものを実体化して考えているのではないかと思う。それに対して答えて曰く、

 汝五逆十悪の繋業を重とし、下下品の人の十念を軽として・・・・・・

 問題は十念で重罪を消してしまうということは判らぬ、それは業道を否定するものであると、それに対してそういう考えは間違っている。軽重というのは全て十念も業も量的に考えている。量的に考えている根本には実体化がある。質的に考えていない。両者は質的相違によるのであると。時節とか多少とかそういうことで軽重を定める標準にはならない。外的標準を以て内面のj標準としようとするものであると。 「時節の久遠多少には非ざるなり」 それ以下在心、在縁、在決定、三標準を以て形而上をはかる標準を出されたわけである。

 先ず、如何が在心。在心というのは在縁からみると、善知識が方便安慰して実相の法を聞かしむるによって生ず。聞かしむるは次の解釈によってみると信心である。真実の心である。それに対して念仏の心は信心、信心が念仏する。ところが五逆を造る心は虚妄顚倒の見である。虚妄の心である。それが業を造る。見というのは間違った智慧で、一つの確定である。思想が確定したとき見という。疑いではない。あああであろうか、こうであろうかではない。虚妄顚倒も確定したものがある。信心も確定している。見はふつう悪い方だけにつかわれるが、正見ということもある。信心は正見である。虚妄顚倒の見が邪見である。正見と邪見、正邪の区別がある。業というものは邪見を根拠として罪業が造られる。念仏は正見を根拠としている。虚妄は不信である。不信が根拠になっている。念仏は信心となっている。ここには主観は絶している。実と虚、実と虚とは闘うということはない。ものは同格であるとき闘う。ここでは闘うというものすらない。五逆は虚から出た実であると思う。五逆罪は偉いことをやったというが、もとは虚、夢のなかのできごとである。第一義諦からみると、親鸞聖人が 「煩悩具足の凡夫 火宅無常の世界 よろずのこと皆持てそらごとたわごとまことあることなし」 といっていられる。 「ただ念仏のみぞまことにておわします」。 そらごとたわごとに対して実相の法とは念仏である。信心は善知識の言葉を通して実相の法を聞かせて頂くようなものが生じたということが信心である。善知識はよき人の仰せである。実相は 「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」 という教えを聞いて信ずる信心である。念仏が実相の法である。虚妄に対して実相、実相からみれば虚妄は夢である。実相は絶対現実というものである。そういうものは考えてみても思索してみても掴めるものではない。我は実相という思想をつかんでいる。信心ということも信仰を得るということと、信仰の論理を理解することとは違う。知識人はその論理的構造を把握したのが信心とおもっている。そこでは宗教的用語を哲学的用語に変えている。信仰を得ることは客観的絶対的できごとを得ることである。信仰は直接触れることはできない。念仏を通して。念仏は絶対実在の言葉である。南無阿弥陀仏の言葉を通して実在を得る。実在にかなうもの、そういうものはどうして得るか、教えを通して得る。親鸞聖人をゆかしく思うのは、信心といわずにただ念仏して、といっていられることである。ただ念仏に信心を返したのでも足らないで、更に教えに返す、教えによって助けられる。そこまで返した。善知識で信心を語る。ここには妙な例がひいてある。恐らくこの譬喩は曇鸞大師の作と思うが、喩喩が巧妙である。例えば氷上燃火、大切なところにくると喩喩で語ってある。譬えというものが大事であることは印度以来のことである。千歳暗室も一晩の光で消失する。虚と実との関係である。明と闇とは闘うもののように考えているが、そうではない。善と悪というようなものではない。闇が先取権を主張するというようなことはない。闇は千年も前からここを動かぬということはいわない。闇は光がくればたんたんとして去る。千年の闇が千年の光となる。それは真に実体化を離れた世界である。行けともいわない。また去れともいわない。去るともいわない。闇そのものが光となっている。闇も光も実体ではない。形はない。こういうことを思う。

 わたしはこの実相をみる智慧のことを唯識などでは覚という言葉であらわしている、つまり仏教における認識を、即ち信仰認識を覚という言葉であらわしているところに仏教を特徴づけていることを思う。仏教では広く悟りをいう。覚には悟・性というものがある。菩提、サトリというのは信仰認識である。その信仰認識の他と区別する語が覚である。覚は夢に対していう。夢から覚めたという経験から信仰認識というものを考えている。ここに信仰における認識論という大問題がある。そういう問題があるが、まあ近代の考えとは大分違う。近代の考えは構成とぴう、主観が客観を構成するというが、悟りというものは本来のものに目を覚ますというか、信仰というものの認識の確実性は、夢という経験を考えてみると、夢のなかにどんなことを考えていても、覚めた瞬間に夢のなかの経験から努力なくして絶対的な距離を見出す。その超絶的な距離を遠離という。お経を読むと、認識というものは明とか覚とか智とか証とかいうものは遠離による解決と直接結びつくものである。これが信仰認識の特徴である。夢のなかに例えば大きなボタ餅をもらった。明日食べようと思って戸棚に入れておいた。それが夢だった。夢が覚めたら再び戸棚を開けようとしない。貰ったのを夢だったかといって、惜しいとか執着を残さない。努力なくして生死を解脱する一点が信仰認識の特徴である。常識から科学的知識に、科学的知識から哲学的認識に移ったからといって夢から覚めたということはない。以前のものが去るということはない。いかに天文学的法則を知っていたとしても常識から地球が動くというようにはならぬ。連続がある。東から風が吹くと天気になるという常識はあるところにだけ通用している知識である。科学はこれに対してどこにでも妥当する知識体系を見出し位置づける。その間に絶対断絶がない。常識から科学に移ってもわれわれ自身は変わらない。しかし宗教の場合は夢であった認識主体が覚めたときに変わる。凡夫が仏になる。それが大事なことである。われわれが何かを知るということによって、知る者自身が変えられて行くのが宗教的行為の特徴である。宗教の世界にのみ真の意味の変革がある。これは全く他の人間行為の認識には見出されぬことである。瞬間に新しく変わる。念仏しても元の木阿弥ということはない。することによってなされる。念仏することによって変革される。これは冒すべからざる特徴である。これが信仰認識である。                  (つづく)

     次回は最終講になります。 「変革の成就」 を配信します。 又少し時間を開けまして次年度から安田先生の 『下総だより』 を配信したいと思います。


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