唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『自己に背くもの』 安田理深述 (19) 変革の成就

2011-12-18 19:50:05 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 政治や経済をいかに改めても自己は同じであって変わらない。ところが夢から覚めれば必堕無間が必得往生になる。絶対的生産的行為である。社会改造ということは、五逆罪は社会的罪であり、謗法は個人的事件にすぎぬと考えているけれども、実はそれは逆で宗教の世界と社会の世界とは違う。一瞬一瞬に驚天動地がある。社会変革は大事件のようであるが、たかがしれている。結局それは人間がやっていることである。人間のすることは限界がしれている。これは非常にありがたいことであるが、信仰認識が他の認識といかに違うか、即ち夢から覚めたというの偉大な特徴である。そこに認識の確実性、真理性、実在性をともなってくる。明覚知証が同時に遠離の変革をともなう変革の認識である。頭は解ったが腹はふくれないということはない。闇と光とはそういう対立である。こういう点譬が大切で親鸞聖人でもそうであるが、インドでは譬はふつう説得術としてあり、論義学の意義をもっている。譬喩を大前提であらわす、たとい・・・・・何々の如し、全て作られたものは滅するというのを作られたるが如し・・・・・という。譬が非常に大事である。譬を大前提であらわす。 「凡ては死す」 ということは直覚的自明な真理である。直覚性が譬喩をとって、そこでは論理は要らない。正信偈に、譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇 といってあるが、あれは親鸞聖人の会心の作である。親鸞聖人の得意なところである。これはここの千歳の闇室と連関がある。信仰認識をいかに捉えたかというと日光である。 「譬えば日光の雲霧に覆わるれども雲霧の下明らかにして闇無きが如し」 こういう譬は信仰を外から模索しているような立場では出てこない。ここで大切なことは信仰の光によって 「雖」 「にもかかわらず」 ということが大事な点である。闇はないけれども雲霧はある。闇が晴れたことは夜の明けたことである。夜が明けておれば必ずしも晴天でなくとも、曇天であってもさしつかえない。もし夜が明けたことが晴天ならば、信心を頂いたことは成仏で凡夫ではない。信心が頂けたからといって貪愛瞋憎雲霧即煩悩がなければ仏になったのである。そうなると 「怪しく候いなまし」 となる。もう腹はたたないという人があるか。煩悩があってもさしつかえない。疑惑があっても無明があってもよいというがそれは逆であり、根本的な誤解である。くもっていることが直ちに夜だと思っているが、実は雲が見えたということは実は夜が明けた証拠である。雲が見えることは自分が見えることである。自分が見えることが夜が明けた証拠である。ここに親鸞聖人の譬は他力廻向の信心においては雲の有無は問題でない。夜が明けたか、明けぬかということが問題である。雲があってもいっこう障りではない。 「悪も恐れなし」 という現生不退の譬喩で語っている。これは親鸞聖人の得意なところであろうと思われる。業というものが暗いということは夜がまだ明けていない証拠である。業というものを実体化し運命化しているからである。本当に深い業というものは夜が明けている。そこに煩悩が頂ける。 「悪も恐るべからず」 というのは既に転悪成善している。転じないのは実体化しているからである。それが十念の念仏によって消えるという。煩悩が頂けるという。だからよく 「信仰を頂けば光は光自身を顕すとともに闇をあらわす。光を頂けば益々深い闇が頂けるという。そんなことはないと思う。知ればなくなるのが闇であると思う。そうでなければ暗いのが信仰の状態であると思うことになる。夜が明けるということは自力我執の心が折れたことである。自力我執の心、頭をあげていると悪作であり、頭を下げないのは悪むものがあるからである。頭は実践理性である。実践理性が五逆罪を悪む。頭を下げれば煩悩自身が頭をさげてくる。人に妨げられるのは人を妨げているからである。自力我執の心が砕かれれば煩悩自身が喜んでくる。煩悩自身が随喜してくる。

 在縁、妄想に依止しては在心という。虚妄顛倒の見である。 「この十念は無上の信心に依止して阿弥陀如来の方便、荘厳、真実、清浄、無量功徳の名号に依りて生ず」 無上の信心は 「善知識の方便安慰して実相の法を聞かしむるに依りて生ず」 とあるが、その無上の信心は第一の在心をいうのである。 「阿弥陀如来の方便、荘厳、真実、清浄、無量功徳の名号」 を在縁という。在心は信心、在縁は名号である。これは何かといえば、五逆罪は父を殺し、母を殺し・・・・・そういうものは煩悩の虚妄果報、果報であるところの煩悩によって衆生を対象として行われた罪悪というものは父を殺し、母を殺し・・・・・即ち五逆を犯した衆生、煩悩果報の衆生である。衆生を所縁として起こった。罪は誰かを所縁として起こされたものでる。所縁とは対象である。阿闍世が父を殺し、提婆は仏から血を出したというが、仏といっても提婆は仏を見ているのではない。仏というのは身体があったり、いろんなことを行為したりしている。五逆に立てば仏も衆生である。日本人は天皇を神といってきたが、神はご飯を食べないのか、食べなければ天皇も死ぬ。死ぬならば天皇は神でない、というのは愚直である。ああいう飯を食ったりしているものを神といっているのではない。位をいっているのである。人間だけを見ていれば子供もある。煩悩果報の衆生である。しかし仏や天皇は殺されるものではない。だからわれわれの殺すことができるものを衆生というのである。殺すことのできぬ、否定し得ないものを名号という。ここにも譬喩がある。首楞厳経にある名号を聞く功徳を滅除薬の鼓を聞くに譬ている例を出してある。

 此の十念は無上の信心に依止し阿弥陀如来方便・・・・・・名号に依りて生ず 譬ば人有りて毒の箭を被って中る所筋を截り 破骨滅除薬の鼓を聞けば即箭出て毒除こるが如し。あに「彼の箭深く毒厲しからん、鼓の音声を聞くとも箭を抜き毒を去ることあたわじ」と言うことを得べけんや。これを「在縁」と名づく。(真聖p275・信巻)

 名号を聞くと鼓の音を聞いて毒箭が除かれるように、三毒の箭は自然に除こる。例えば薬で病を癒すというが、それは病の征服に薬というのは人間解釈である。世のなかは直す者もなければ癒すものもない。薬品は意志をもっていない。病気も苦しめようとしていない。素直に病気になっている。そうなるべくして成っている。自然に病気の現象があるばかりである。だから癒るのは別に癒すものなくして癒る。それが根本的事実である。癒すとか癒さないとかということは後から加えた解釈である。念仏を聴聞すれば正しい道理が知らされる。正しい道理でわれわれは救われるのである。仏に救われるというのは間違いである。そういうことをいうと判らぬが道理に助けられる。仏という人に助けられるのではない。自然の道理に救われる。道理は癒す意志があるわけでない。本当の絶対現実に帰ってゆく。そこに決定がある。罪の意識というものは有後心、有間心である。後がある心、間の有る心である。間とは間雑である。外のものが交わってくる。念仏の信心とは違う。信心の無後心、無間心である。人間がいかに頑張っても本質的にまが抜けている。空虚がある。弱い心である。ところが念仏の信心はそれ自身最後の心である。自力の最後の心である。自力の最後のところ、自力の終わるところに念仏の信心がある。こういうところに決定ということがいわれている。兎に角、在心・在縁・在決定と三つを通じて質が違うということをいっている。

 念仏とか信心とかいっても一念というところにはっきりする。信行という事実に触れてくるのである。この場合時間でない、のみならず意識的時間でない。ふつう考えられる時間は意識的時間である。空間に翻訳した時間である。存在的時間である。それに対してあるものは現在である。過去としてあるものは記憶である。現在において繋留したものである。永遠の今はまだ意識的時間である。一年は行為的時間である。だから時節を問わぬ内容をもっている。なるほどというとき、多刹那にわたって一つの行事成弁という。一つの事実がそれによって完成するのを一念というのである。一刹那をもって完成するとき一念という。信仰のもっている行為的時間である。空前絶後のときであり、無始以来の自己、曠劫来死んでいる自己が新しく生まれるときである。それが本願のできごとである。十念といってあるが、十という数を知れることが既に反省しているでないか。反省していれば一心一向になっていないでないか。一心一向になったら数えられないであろうと。

 ひぐらしは夏生まれて夏死んでしまう。ひぐらしは春秋を知らず、従って夏も知らない。夏といっているのは人間である。十念もわれわれは知らない。十念は仏の知っていることである。

                                 (完)

 繰り返し繰り返し安田先生の声を耳をすませてお聞きください。願生浄土の道を歩まれんことを節に願います。

 


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