唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『自己に背くもの』 安田理深述 (11)  唯除の自覚、その(2)

2011-10-23 16:03:11 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 よく真宗の人で罪悪をみとめるというが、罪悪を認めるということではない。罪悪を認めるのを邪見という。善も肯定しないが悪も肯定しない。親鸞聖人は「五逆の罪人を嫌い謗法の重き咎を知らせんとなり、この二つの罪の重きことを示して十方一切の衆生皆漏れず往生すべしと知らせんとなり」といって唯除は二つの罪を知らせんためと申されている。それはいかにも簡単に述べてあるが廻心皆往ということである。廻向というは謗法の罪の重大なるの警告である。われわれについては本願を疑う。本願に洩れている。そういうことによって三信は根の信であると誹謗正法を否定媒介として廻向の信に触れる。『涅槃経』の文を結んで親鸞はこのようにいっておられる。

 「ここをもって、今大聖の真説に拠るに、難化の三機・難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、 これを憐憫して療したまう。たとえば醍醐の妙薬の一切の病を療するがごとし。濁世の庶類・穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。本願醍醐の妙薬を執持すべきなりと。知るべし。」(真聖p271)

 この親鸞聖人のお言葉は非常にデリケートである。第一の本願を憑む、利他の信海に帰せよ。われらは本願を信ずるということである。信海に帰せよと、帰せよの呼びかけを受けているものは難治の三機である。信海に帰せよ、海に入れよと、それは意識ではない。帰入せよというのは信ずる意識ではない。信ずる意識というようなものは帰してみようがない。信海に帰命せよ。帰命するとは頂いたことである。無根の信である。勿体ないと頂いた。それに自力の信心が批判されている。自力の信心を否定媒介として大きな信海に目覚める(意識的にではない)本願の海に目覚める外に意識はない。桶の底が抜けた。抜けた底に意識があったわけではない。だから信心というも超越的である。こういう信心を明らかにするにはどうしても仏智疑惑を否定する関門を透過しなければならない。

              次週は 「本願の正機」 を配信します。


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