唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 別境 ・ 定の心所について、その(1)

2010-09-05 18:20:56 | 心の構造について

1月4日のブログの書き込みに補足します。4日の書き込みを整理しますと、次のようになります。

 “「定」といいますと、ある対象に向かって心を専注して乱れないということです。ここでも何を定と言うのかという問いが出されています。それに対し「所観の境に於いて。心を専注して不散ならしむるを以って性と為し。智の依たるを以って業と為す」といわれています。観は観察・境は対象、所観の境は観察しようとする対象・それに於いて心を留める、不散ということ、散乱しないことを本質とするということです。念を受けるかたちで、定がもたらされます。定は智慧の所依となるというのですね。智慧は真理を知るはたらきですね。智慧が生まれるのには念・定の心所が大切なのです。定に於いて心が浄化されるのです。浄化ということには本来に帰るという意味が込められています。本来は清浄心なのですが、煩悩によって覆われているのですね。私の経験したことのすべてが今を生み出している、そのすべてが煩悩によって覆われているというわけです。例えば貪欲です。自分の欲望を満足させたいがために執念を燃やすということがありますね。目標一直線に心を集中させるということなのですが、これは定とはいわないのです。定に似て非なるものです。煩悩を翻すということに於いて真実を知る智が生まれるということなのです。「智の依」というのが「定」であるということ、大事に聞いていきたい心所です。「定」は心をひとつに留めて悪を作らない、浄を妨げる貪欲・慈悲を妨げる瞋恚・因縁を妨げる愚痴の煩悩を止となす、といわれています。大乗仏教では修行の階位としての止観行が最も大事なこととされているのです。「所観の境に於いて、心を専注する」ということですね。修行することによって柔軟心を成り立たせるということがいわれるのです。自己に執着する心が翻されて柔らかな、何事にも対応できるような心に転ずるというのです。”

 このことが、蓬茨先生がいわれる「すべての絆から脱する」ということなのでしょうね。

    第三能変 別境 ・ 定について、その(1)

 「云何なるをか定と為す。所観の境の於に、心を専注(せんしゅ)にして散ぜざら令むるを以って性と為し、智が依たるを以って業と為す」(『論』)

 (意訳) どのようなものを定の心所というのか。定というのは、所観の境に対して、心を専注にして、散乱させないことを以って、本質的な働きとし、智の依り所となることを以って具体的な働きとする心所である。(所観とは、認識対象側のこと。観じられる側で、観じる側は能観という) また、定は智の所依になるということは、多分によって、浄分が説かれているのであり、すべての定が智慧を生じさせるわけではない、ということでもあります。俗な例えですが、聞法していてもですね、急に地震や家事が起きたとしますと、聞法どころではないですね。我が身可愛さのあまりの行動を取ってしまいます。また、絶世の美女が横切ったとしますと、私だと、眼はそちらの方に奪われて、聞法どころではなくなりますわ。殊勝なことをしていても、心は正直なのですね。自己中心的にしか生きていけないのです。聞法はこの自己中心的にしか生きていけない我が身を頂くのですね。「愛欲の広海に沈む」我が身、「無慚愧」の我が身に手を合わされることを頂くのです、このことが定の本質なのではないでしょうか。

 「よく智を生ずとは、これは多分において言う。あるいは浄分において説く。一切をいうに非ず。即ち定の後に癡心を起すが如きことあるが故に」(『述記』)と、述べられてあります。

 「謂く、徳と失と倶非との境を観ずる中に、定に由って心を専注して散ぜざら令む。斯れに依って便ち決択の智生ずること有り」(『論』)

 「心を一境に専らにす。教によって縁じ、所縁を証解するとき、心はすなわち明浄なり。これに由って、ついに無漏の智が生ずること有り。よく所縁の徳失等の相を知る。四法迹に約して定はよく智を生ずという。定めて然るべきにあらず」(『述記』) - 定は、心を一つの境(対象)に注ぎ、仏の教えに由って学び、所縁(対象)を証解する時、心は明浄になる。これに由って無漏智が生ずることがある。この智慧に由って、対象の徳・失・倶非の有り様を知るという、と述べられています。尚。ここで忘れてはならないことは、定も三性に通じていますので、すべてに通じているわけではなく、多分と浄分によって説いているという事です。

 四法迹については8月28日の項を参照してください。決択の智とは無漏智のことです。また専注ということについては「心の住せんと欲するところに深く注ぐ」という意味であり、刹那刹那に対境を異にすることはあっても、一境一境に深く心を注ぐので、専注といわれます。ですから、多刹那に亘って相続して同一の境に住すという意味ではないことに、注意が必要です。そして、一境に専注しない場合には、定は起こらないといっています。 次の科段に述べられています。

 「心専注という言は、住せんと欲する所に即便ち能く住すということを顕す。唯一の境のみには非ず」(『論』)

 「この専注という言は、この定心がただ一物を縁ずというに非ず。即ち所住の心の多少の境、あるいは一刹那に別に心に住せんと欲する処に随って、深く所縁をとる。定は即ち生ずることを得。要ずしも前後にただ一境を縁ずるには非ず」(『述記』)

 『論』・『述記』の記述は上に説明した通りです。この専注の理由については、明日述べます。


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