「能く不疑の善品を障うるを以て業と為す。謂く、猶予の者には善生ぜざるが故に。」の一文を読んでみたいと思います。
2013年12月27日の項を参考にしてください。
疑は「不疑の善品を障えることをもって業用とする」心所である、ということです。この心所は不善と有覆とに遍満し、三界に通じ、ただ非量にして第六識にのみ相応する心所であるということになります。
不疑は、事と理に対して疑いのない心を本質的な働きとし、よく善品を生起することを業用とする心所である。
猶予が疑なのですね。「事と理に対して」ということは、仏法を疑っている(信じていない)のでしょうが、では何を信じているのかです。自分の都合を信じているわけでしょう。事と理は自他不二という無分別ですが、自分の都合は有分別ですね。分別をもって自他を切り離しているわけです。このギャップが猶予なのでしょう。ですから、自分の都合に於いて他を傷つけていくことになります。「善が生じない」ということも理に合っているわけです。
私事になりますが、父の兄弟間でちょっとした争論が起こっています。双方の話を聞く役目を仰せつかったのですが、共に自分の主張を正当化して、話し合いは平行線のままなのです。自分が正しい、間違っていない、あんたが謝るべきである。謝ったら許してあげるという傲慢さが頭をもたげています。これが「疑」なんですね。「俺を立ててくれ」という主張は、あなんたが潰れろ、と言っていることなんですが、見えないですね。見えるまでの期間が猶予中ということになりましょうか。
では何故このような疑が生じてくるのでしょうか。『瑜伽論』巻第五十五(大正30・603c)には「疑は六事に依って生じる」と説かれています。
- 一には、不正法を聞くこと、
- 二には、師の邪行を見ること、
- 三には、信受する所の意見の差別をみること、
- 四には、性自ら愚魯(グロ)なること、
- 五には、甚深なる法性、
- 六には、広大なる仏教なり。
と。(4)(5)(6)はちょっと理解し難い所ですが、(1)~(6)まで共通していることは、自分中心の見方なのです。正法でないものを聞くと正法に疑いを生じる縁となり、師の邪行を見ると、師の学んでいる教法に疑いを生じる縁となり、自分が信じている教えと違う教えを見ることに於て信受している教えに疑いを持つ縁となる、ということが(1)から(3)に説かれています。
(4)は、自分が愚かである為に正法を理解できないことが縁となり疑いを持つ。
(5)は、やはり、無上甚深微妙の法は理解しがたく、理解できなことが縁となって疑いを持つことになる。
(6)は、(5)と関係しますが、広大な仏教もまた理解しがたいものであり、疑いを生じる縁となるものである。
と述べてありますが、自分の範疇の中にあるもの、それが疑なんですね。これは自分の絶対化です。自分の都合に合わせようとすることがイコール疑であり、猶予と云われているところなんです。猶予とは、諸の諦と理とに目覚めなさいという要求になるのでしょう。
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