唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「下総たより」 『たのんで助かるとは』 安田理深述 (2)

2012-01-29 19:18:37 | 『たのんで助かるとは』 安田理深述

 「たのめ助けんというのは、半分は頼め、半分は助けんという半分半分のようであるが、併し阿弥陀仏の方は学問上の言葉でいえば、法というべきものである。阿弥陀仏は法であり、南無は機である。機も法も本願として一体である。二つのものを合わせたのでない。南無ということによって機を成就する。本当の機というものはたのむという所にある。実は法からいえば法は機を超えて広大である。阿弥陀仏御自身である。しかしながら如何に衆生を助けようという法の本願があっても、我々人間が頼むことが出来んならば、法も助けようという働きを現わす訳にいかん、法も無駄になってしまう。法は無論機をこえておるけれども、機というものがなければ法も法として働くわけにいかん。機というものを却って法の方が求める。仏の方が我々に仏を頼むことを求める。我々が仏を頼むより先に、仏が我々に仏を頼むことを求められておる。それが頼めという呼びかけである。法から機を開く、助けるという法から頼む機を開く。その開いた機の中に、たのむという機の中に助けんという法全体が与えられておる。つまり廻向されておる。南無として、南無の中に頼む、南無の成就した我々の中に仏全体がある。だから法は広大である。機は位からいえば低い位であるが、その低い機の中に法全体がある。南無阿弥陀仏という名号の中心的意義は寧ろ南無という二字にある。たのむということがお助けである。頼んだ結果がお助けでなく、頼むことの中にお助けがある。南無阿弥陀仏であるが重点は南無である。

 こういう頼んで助かるという、頼むことによって我々が助けられるということが、我々に先立って名号として成就されている。そこに南無阿弥陀仏という名号が成就したということが人類の救いが答えられている。そこに仏の仕事は既に終わっている。仏が衆生を助ける法・南無阿弥陀仏は成就して仏の仕事は終わっている。あとは我々の頼むという仕事が残っておる。それは時機当来、あらゆる人々が時機当来して南無阿弥陀仏に目ざめる。

 時機当来といっても外から頼むのでない。頼めという言葉に気がつく。たのめということの中に頼むということが成就しておる。南無阿弥陀仏はこれからあるのでなくして始めからあるのだ。始めといえば南無阿弥陀仏が始めである。一切に先立って南無阿弥陀仏がある。本願といっても南無阿弥陀仏の根底であり、本願の言葉によって本願にふれる、南無阿弥陀仏という所に本願が現実になっている、名号はこれから実現される理想ではなくして本願の現実なんである。我々の知らん先に我々はその中に包まれておる。

 始めにある南無阿弥陀仏の中に、未来悠久の人類全体が最後の一人に至る迄救われる。人類全体の運命が摂められている。何よりも先にある古い南無阿弥陀仏が、それが常に新しい意味を語っているのである。古い南無阿弥陀仏に我々は新しい意味を発見する。古い南無阿弥陀仏に我々の自覚という新しい意味を発見してくる。新しく発見してみればもとからあったものだ。我々が目覚めるというのも、助けられるというのもその全体が南無阿弥陀仏の働きである。その古い南無阿弥陀仏のその中に、頼め助けんという永遠に新しいひびきというものが叫ばれている。お助けとか救われるとかいうけれども、救いというのは事実頼んで助かるというものも事実であるが、事実といってもいわれの他にない。頼めば助かるといういわれに、つまり道理、道理に救われる。或は道理が救いである。体験の事実というけれども道理の他にない。

 南無阿弥陀仏が凡て、本願成就の南無阿弥陀仏が凡てだということ、あらゆる人類老少善悪にかかわらず助かるといういわれがそこにある。いわれというのは本願の真理、真理にふれればそこに事実がある、事実は真理が真理自身を証明しておる。我々の救いは本願が本願自身を証明するという所にある。本願の真理を本願自身が証明しておる、それが事実というものである。仏様というようなそういう超越的存在に救われるのでない。道理に救われるのである。道理に救われた人を仏というのである。だから一番大事なことは、南無阿弥陀仏の道理がはっきりするということである。道理は理屈ではない。理屈には事実がない。道理は道理自身の中に純粋な事実が成就している、道理即事実である。理屈は事実にならん、道理にうなづいたことが事実である。それを頓極頓速という。それ程早いものである。我々がこれから体験したりするような、そういう自力の努力を必要とせん。南無阿弥陀仏は言葉であるが言葉が救いである、道理といっても言葉の意味である、本願というのは言葉、精神の言葉の意味が道理である。

                 (つづく) 次回は2月5日に配信します。


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