唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『自己に背くもの』 安田理深述 (17) 業道の超越 (Ⅲ)

2011-12-04 17:12:00 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 先ず重きものが牽くというのは約束する。牽引という。牽引は何かに区別されていう。それは生起因に対して牽引因という。生起因というものはものを生ずる、現在したのは今であるが、未来を約束する。どこにあるというようなものではない。目に見えたときは生起である。阿闍世が父殺しを煩悶し後悔して身に瘡を生じた。そして阿闍世は、我今此の身に果報を得たりといっている。果報というとき地獄を予感している。未来を約束するとき牽引というものがある。大願業力という。業というものを媒介として願というものが考えられてくる。引く、繋属する。牽くにしても縛りつける。これらのことを現代では運命的という。宿業は運命と違う。縛られるというところに運命ではないが運命的であるといえる。しかし運命というときは他者的で、そこに自己の責任ということがない。今日はその業を運命としてしまっている。これも前世の業でというが、それでは運命というものになっている。運命ということの自覚のないところにこれも業でと逃げている。実存の自覚を離れたら業というも運命になってしまう。これは業を運命的に実体的に考えている。業を実体化するところに業は運命となる。業は実体化する実体観というものが問題を提起する。例えば仏陀が懺悔した阿闍世に向かって、六師外道に似た詭弁的な言葉を以て説法していられるが、阿闍世の廻心の経路というものは書いてない。月愛三昧で象徴的に書いてある。この点実に内面的に書いてある。仏陀も六師外道と同じように語っていられる。父はお前に殺されたが殺されるような業をもっていたからである。これは何かというに実体化の思弁を払おうとする。罪を悲しむことは同時に自己を傷ける。傷つけるというのが実体化である。悲しんだということは純粋であるが、自己を傷つけるというのが実体化である。

 仏陀は偉大な心理学者である。医者には臨床医学というものがある。運命というものは救いがない。宿業には救いがあるが運命には救いはない。宿業は責任を引き受けると同時に超越がある。宿業には責任を引き受けると同時にそれを背負う力が与えられている。絶対必然を通して、その絶対必然のところに自由が与えられている。その必然と自由とが対立してくることは実体化しているからである。そうすると自己をいためる。自分を暗くする。暗くすることと悲しみとは別である。悲しみが徹底しないと暗く陰鬱である。本当に深い悲しみは明るい。大悲は素直である。秋空のように透明である。静かで明るい。一点の不平不満がない。そこには静かな深い悲しみがある。そこに懺悔と後悔と区別がある。暗いのは欲があるからである。実体化があるためである。子供を悲しむことにおいて自己を悲しんだりするのは実体化があるからである。エゴイズムの変形である。そこに懺悔と後悔の区別がある。後悔には煩悩がある。後悔は悪作と定義される。作したことを悪む。しまったというのは煩悩で懺悔とはいわぬ。慚愧という。慚(ざん)と濁るのである。懺悔というときはザンゲではなくサンゲと濁らない。懺とは印度の音である。

                次回は 「虚妄と実相」 を配信します。


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