唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (74) 五受分別門 (3)

2011-12-10 18:10:17 | 心の構造について

 第二師が自らの主張を述べるわけですが、第一師の説は非常に素直に第七末那識は第八阿頼耶識を対象として、恒に内に我と執する。我と思惟(有分別)するわけです。我であると愛着するわけですから、そこには喜受しかないというわけです。「此の識の受は一類にして而も転ずるを以てよ故に」(『述記』)と。憂受、喜受は意識で分別する感受作用ですから、末那識と相応する時には、愛着という感情は楽受ではなく喜受になります。この説には一応の道理があるわけですが、また欠点もあるわけです。論書と矛盾するということが取り上げられていますが、那落迦(地獄)においても喜受が存在するといわなければならないということです。敷衍すれば三界九地(境遇)に喜受は相応するという主張です。しかし『瑜伽論』には地獄には憂受のみが相応し、初第二静慮とに生まれる時には、喜受と相応する。そして第三静慮では楽受と相応し、第四静慮(色界第三禅天以上第四禅から有頂に至るまで)の世界には喜受は存在しない、捨受のみが相応する、と説かれていることと矛盾するといわなければならないと指摘し自説を述べるのです。苦受と楽受は無分別であり身受になります。捨受は不苦不楽受といわれ、苦でもなく楽でもないと感ずる感受作用ですね。中庸の心といわれます。苦にも楽にも遍しない働きです。

 「応に説くべし、此の意は四の受と相応す。謂く、悪趣に生ずる時には、憂受と相応す、不善業が所引の果を縁ずるが故に。人と欲の天と初二静慮とに生ずるときには、喜受と相応す、喜有る地の善業の果を縁ずるが故に。第三静慮にては楽受と相応す、楽有る地の善業の果を縁ずるが故に。第四静慮より乃し有頂に至るまでには捨受と相応す、唯だ捨のみある地の善業の果を縁ずるが故にという。」(『論』第五・初右)

 (まさに説くであろう。この第七末那識は四の受と相応する。それは悪趣(三悪道)に生まれる時には、憂受と相応する。何故なら、不善業の結果としてもたらされたものを縁じるからである。三界六道中の人間界と天界と初二静慮(色界の四つの静慮の最初の初禅と第二禅)とに生まれる時には、喜受と相応する。何故なら、喜がある地の善業の果を縁じるからである。第三静慮(色界第三禅)では、楽受と相応する。何故なら、楽がある地の善業の果を縁じるからである。第四静慮(色界第四禅)から有頂天に至るまでは捨受と相応する。何故なら、ただ、捨のみある地の善業の果を縁じるからである、という。)

 「四の受と相応する」とは、憂受・喜受・苦受・捨受の四つと末那識は相応する、と。業という問題に関わってきます。阿頼耶識の果としての境遇を主体としてもっている。所引の果として三界九地という限定をもつわけです。悪趣には喜受ではなく、憂受と相応するといわれていますが、憂もまた自己を愛着するが故に憂いが生じるのです。いうなれば喜を欲するが故に憂うわけです。

 では何故、末那識は四つの受と相応するのであるのかという問題は、『述記』に詳細に述べられています。

 「述して曰く、此の意は四の受と相応すと許すべし、唯苦根をば除く、五識にのみあるが故に。余の文は解すべし。此の師の意の説く、第七が所縁の阿頼耶識は是れ引業の果なり。彼の善悪の地に在るに随って、此の第七識は即ち彼の地の能く果を引く業の増上の受の類と相応す。彼の業が果を縁じて境界と為すが故に。又(生)地に有る所の(第六)増上の受は此の地の業なり。是れ何れの受に随っても(第七は)彼の地の業が果(第八識)を縁ずるが故に。(第七の)見いい彼の増上(受)に随って彼の受と倶なり。欲界には捨受の果も有り、此の識は捨受と相応すすべしと雖も、而も業劣なるが故に此に倶なりと説かず。苦・楽受の如きは唯だ五識にのみ在って引業と倶にあらざる故に今は説かず。初二定の楽の五根を怡悦するは、義いい別に説くが故に亦之を説かず。准じて知るべし。」(『述記』第五本・六十八左)

 「疏に第七が所縁というより為境界故というに至るは、此の釈に意に云はく、随いて何の地の所引の果の識を縁ずれども、第七と倶なる受は即ち先世の引業の受と同じ。何の所以とならば、彼の引業に感ぜられる果を縁ずるが故に。疏に相応と云う是れ随順の義なり。若し彼の業受と随順せざるときは即ち彼の業の果を縁ずること能はず。 

 疏に、又地に有らゆるというより彼の受と倶なりというに至るは、此れ第二釈なり。所縁の識の所生の地に随いて、七は彼の地の第六識の増上受と倶なり。倶とは即ち是れ喜・憂等と同なり。何の所以にか然るならば、彼の地の引業の果を縁ずるに由るが故に当地の増上受と同なり。悪処に生じて憂受増上するが如し。余趣も准じて知れ。前(前解)は彼の(前世)能引の受と同なるに拠る、後(第二釈)は所縁の当地(現在)の増受に同なるが故に二別なり。有る義は第六識の増上の受と倶なるに随う、初転依の六の増上に随うが如くなるが故に。受倶起すること亦第六に随う。」(『演秘』第四末・二十二左)

 「第二の師の釈すらく、末那は通じて四の受と倶なりと云う。問うて云く。何ぞ欲界にして苦と倶にあらず。乃至二静慮にして、云何が楽受と並ばざりぬ。答。疏に已に簡び訖んぬ。云何が憂喜と倶なる。答。且く喜と倶なりというに其の三の釈あり。一に云く、喜と第六と倶なり。第七は六と倶なるが故に。喜と相応すと云う。爾らず。何を以ての故とならば、喜有る地の善業所引の果を縁ずるが故と云うに、第六を縁ずといはず、故に此の解非なり。二に云く、果を以て因に従うが故に、或は喜受と相応する思に従って感ぜざるる此の第八識なり。第七は此の引業が果を縁ずるが故に。縁有喜等と名づく。喜受と倶なるべし。三に云く、相順せるが故に倶なり。五識は前の相分に説くが如し。此の相は前の五識が熏成せるに従って、後の五識が縁ずるを前の相を縁ずと云う。此の義亦爾なり。此の果は喜と及び相応の思とに従って招感せられたり。此の果を縁ずと雖も彼の因に順ぜる故に。喜と倶なりと云う。余の受と相応するに三の釈あり。之を准ぜよ。」(『了義燈』第五本・初右)

 阿頼耶識がいかなる果をもたらすのかは業によるわけです。この阿頼耶識の引業は第六識と相応する思の心所によって引き起こされるのである。「相応の思とに従って招感せられたり」と。招感とは、まねき引き起こすことです。悪趣に生ずる業、この業によって境遇が決定されるわけです。阿頼耶識は無限の可能性を秘めているのですが、限定された境遇をもつのは私の業果です。ですから悪趣に生ずる業は、第六意識に相応する思の心所の悪をなすという意志によるわけです。この心所は憂受と倶であるといわれています。そして憂受と倶である業に引かれて末那識も第六意識相応の受と同類のものと相応するわけです。同様に喜受・楽受・捨受も説明されます。同様の論理によって末那識と相応すると述べられます。いかなる場所に生じるかは、第六意識の思の心所の意志によるという側面と、第六意識は、阿頼耶識が現行した地(器界)と倶に存在するという側面とが述べられているわけですが、第三説に於いて護法は「彼の説も亦理に非ず」と前説を論破します。

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 思の心所について (2010年8月11日の項より転載)

 「思は心に正因等の相を取って、善等を造作せ令む。心が起こる位に此の随一無きことは無し。故に必ず思有り」(『論』) 

 遍行とは何かについては巻三に詳しく説かれているところです。ここでも巻三の説明を引用しながら歩を進めているわけですが、第三能変においての遍行の解き方は、何故、遍行といえるのかに論旨が委ねられています。
 (意訳) 思は、心に正因(解脱に向かわしめる善業の因)等の相を取り、善等を造作させる。心が起こる時に、此の善等の中の一つは無いことは無いのであって、必ず存在するのであるから、これからもわかるように、心が生起し活動するときには、思は必ず遍して活動するのである。よって思は遍行であるといえる。
 思とは意志のことです。意志決定をするということ。~にたいしてどうするのか、それを決定する心所ですね。巻三の説明をみてみましょう。
 「思と云うは、謂く心をして造作せ令むるを以って性と為し、善品等に於いて心を役するを以って業と為す。謂く能く境の正因等の相を取って、自心を驅役(くやく)して善等を造せ令むるなり」といわれています。
 良遍は「思ノ心所ハ、心ヲ善ニモ悪ニモ無記ニモ作成(つくりなす)ス心也」と簡潔に説明されています。
 仏教大辞典によりますと「心の動機づけの作用。意志の発動。身・語・意の三業をつくる心作用」と説明されています。
 そして思業・思已業という分類がされます。身口意の三業によって私たちの行為は決定されるわけですが、それが思業・思已業に分類されるわけです。思業は意業です。心の中で思っているだけの業で、種々思考することですね。それに対し、思已業は心の中に思っていることが外に現れた業といえます。身体の動作・言語の発動です。また、思業は尋求思・決定思、思已業は動発思であるといわれています。考える事と、様々な行動を起こすことです。
                尋求思
         思業 -{      }-意業(心の行為)
                決定思
                       語業(言葉の行為)
         思已業-動発思 -{
                       身業(身体の行為)
                『成唯識論要講』p342より抜粋
 まず心の行為です。全ての行為の原点になるのが意志です。意業です。意志決定を通じて動発するわけですから、如何に私たちの意志が重要であるかがわかります。
 「正因等の相」とは、『瑜伽論』巻三を引いて解しています。「此の邪と正と倶相違との行業の因相をば思に由って了別すと説けり。謂く邪正等行とは即ち身語業なり。此の行が因は即ち善悪の境なり。・・・」(『述記』)と。
 正因は善業を行わせる因となる認識対象をいう。(行因即境善悪)、邪因は悪業を行わせる因となる認識対象をさします。倶相違は無記の行為です。このように善・悪・無記の行為が意志によって決定されるということが教えられているわけです。意志が人生において如何に大事かが教えられています。悪に赴いていくならば、とことん奈落の底に沈んでしまいますでしょうし、涅槃に向かおうとするならば、そこに生きる事の意味がはっきりと見定められてくるのではないでしょうか。それを親鸞聖人は「往生極楽の道を問いきかんがためなりけり」(『歎異抄』)と見極められたのであろうと思います。
 

 


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