唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (75) 五受分別門 (4)

2011-12-12 22:54:00 | 心の構造について

 護法正義を述べる。初は前師の説を論破し、後に自説を述べる。この科段は初である。

 「有義は、彼の説も亦理に応ぜず。此は無始より来、任運に一類に内に縁じて、我と執じつつ、恒に転易(てんやく)すること無きを以て、変異の受とは相応せざるが故に。」(『論』第五・初左)

 (有義(護法)は前師の説も亦理にかなわないという。何故なら、この第七末那識は無始より以来(このかた)、任運に一類に第八阿頼耶識を縁じて我であると執着しつづけ、恒に転易することがないので、変異するような受とは相応しないからである。)

  •  恒 - 恒であるものは有為法(因と縁とによって生じた現象的存在)であり、「阿頼耶識は恒に転ずるが故に、断に非ず、常に非ず。」
  •  常 - 常であるものは無為法(因と縁によって作られない存在。非現象的存在)である。「究竟位の菩提・涅槃は無漏界なり、不思議なり、善なり、常なり。」

 以前にも紹介しましたが『解深密経』の会の六月例会で高柳師がこの恒と常について触れられています。「そしてこの世親の『唯識三十頌』の中で一番よく知られた言葉が「恒転如暴流」 という言葉です。「恒に転ずること暴流の如し」、ですが、これは私たちの心、意識の事を言っているんですね。心です。私たちの心は、恒に転ずるのだと。この転ずるというのは、よく波に譬えられます。波が起こる。安田先生がよく言っておられましたが、海があってその上に波が現れる。濤波ですね。波が恒に起こって、それが絶えることがない、これを暴流のようだとですね。ここに流れという事があるんですけれども、これが 「恒」(ごう) という字で、なかなか面白い字ですね。 「恒」 と 「常」 というのは意味が少し違いまして、 「常」 というのは、途切れることなくずっと続いている状態の事を言います。それでこの 「恒」 というのは、これは不思議な言葉ですね、微妙ではありますが、 「恒に新しい」 ということです。言葉で言えば刹那滅ということですが。同じ 「つね」 と言っても、同じものはない、いつも新しいという事を 「恒」 といえると思います。」と述べられておられます。

 恒と常は論理的には『倶舎論』(巻第二十4-5)によれば「三世実有法体恒有」と。有部の教説ですが、法自体は恒に有るといい、常に有るとは言われていないのです。生滅変化しながらも体が有ることを、法の体は恒に有る と解釈されているのです。ですから、第七末那識は無始より今日まで任運(自然に、意識することなく)に一類(同一のありよう)に阿頼耶識を縁じて、我であると恒に執着し続けるのであって、憂・苦・喜・楽と変化するような受とは相応せず、ただ捨受とのみ相応すると述べられるのです。

 「述して曰く、第三師の言。第二の師の説も理も亦理に応ぜざるなり。此れは無始より来(このかた)、一には、任運なるに由るがゆえに恒なり。二には、一類なるに由るが故に変無し。故に唯だ捨受のみなり。是れ捨受に非ずんば変異すと名づくべし。易脱すること有るが故に。瑜伽の六十三に倶生の捨受は第八識と倶なり。余の憂・喜等の受を起こすべきものに非ずと、亦此の義を証す。然るに楽・憂等はみなな思惟に引発せらる。此の識は任運なり。如何ぞ捨を起こさざらん。」(『述記』第五本・六十五右)

  • 『瑜伽論』巻第六十三の記述 - 「阿頼耶識相応の受は一切時に於いて唯だ是れ不苦不楽なり、唯だ是れ異熟生なり。・・・・・・所余の(六識の)三受は当に知るべし。思惟の引発する所にして是れ任運に倶生するに非ず、時時に作意して引発し現前すと。彼の任運に倶生する受は極めて微細なるが故に分別すべきこと難し。・・・・・・復次に阿頼耶識は煩悩と而も共に相応することあること無し、末那は恒に四種の任運なる煩悩と相応し、一切時に於いて倶に起こって絶えざるなり、」

 「論に、任運に一類に等というは、阿頼耶は任運一類にして転易無く、思惟に引かるる受と共に相応せざるが如し。此れ何ぞ爾らざる、何を以て然りということを知る。答、瑜伽論の六十三を按ずるに、阿頼耶識と相応の受は一切時に於て唯だ是れ不苦不楽の受なり。一切の識の三受の位の中に於て、恒に相続し、流れて乃し命終に至るまえ断絶有ること無し。所余の二受は、当に知るべし。思惟の引発する所にして、是れ倶生するに非ず。時々に作意し、引発し現前すと云えり。八を以て七を例するに七も同じく唯だ捨なり。」(『演秘』第四末・二十三右)

 『了義燈』には、我を執する我見は阿頼耶識の見分であるのか、自証分であるのかという問がだされていますが、「但だ見分のみを我見と名づけ、自証分には非ず」と。阿頼耶識の見分を縁じて我と執するのです。


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