唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『自己に背くもの』 安田理深述 (10)  唯除の自覚、その(1)

2011-10-16 19:30:56 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 善人なる故に往生できるものではない。そんなら悪で救われるというのは邪見である。善人なるが故に救われるというのは憍慢である。信心によって救われる、こういうのが真宗の教相である。 「十方の衆生至心に信楽して我国に生まれんと思え」 といわれたからといって、 「さようですか」 といって信ずることができるわけではない。そこに獲信のためには根元の懺悔を通さなければならぬ。そこに至心信楽の機というものが生まれてくる。唯除ということを通さなければ、他力迴向が自覚的にならない。唯除が置かれるために自力が懺悔され、この迴心懺悔を通して無根の信に触れる。他力の信心は自力というものの根底的に打ち砕かれるところにある。自力の打ち砕かれるに即して打ち砕く他力あり、誹謗正法の迴心とは自力の懺悔である。それからくらぶれば五逆の懺悔は浅いものである。本願のなかにありながら本願に反逆している。その自己の反逆性が打ち砕かれて始めて至心信楽欲生の無根の信が明らかにされてくる。本願の三心が、無根の信であるということの自覚を与えてくれるものが唯除の精神と思う。今いったようにくると、唯除五逆誹謗正法の罪深いことを善導大師は明らかにされた。謗法は永遠に許さぬという曇鸞大師の解釈は、信ずるものは皆往くと語っている。本願を信ずるものは浄土に生まれるということを信心成仏という。それを明らかにされたのが論註である。誹謗は許さぬという、即ち本願を信ずれば皆往生すという信心為本を明らかにした。誹謗正法を許さぬというところに信心為本ということがある。その懺悔を通して迴向の信に目覚めるというのは曇鸞大師と善導大師との帰結を一にする。

 本願の分というものを読んでみると 「十方衆生至心信楽欲生我国・・・・・・・・不取正覚唯除五逆誹謗正法」 とある。不取正覚といったときに自分はどこにいるか、誓われた本願のうちにいるかというに外にいるという自覚、不取正覚と誓った後に唯除が出てくる。本願に触れてみれば本願の外にいる。こういうことからみれば除くということは排除でなくして、除くものなくして除かれている。除はわれわれの問題である。本願は救っている。われわれがしかるにもかかわれず除かれている。本願のうちにありながら背いている。自らが除かれている。除くという言葉によって除かれていることに目覚める。われわれの唯除ということによって本当の無根の信、他力迴向の信心というものを明らかにしている。第一義では善も悪も罪にならぬ。ただ仏智疑惑が本願の唯一の罪だという。唯除について信心為本を明らかにしてくることでないかと思う。親鸞聖人のお言葉では、 「唯除という唯除くという言葉なり、五逆の罪人を嫌い謗法の重きとがを知らせんとなり」     (つづく)

            次回は 「唯除の自覚」 その(2)を配信します。


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