唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『自己に背くもの』 安田理深述 (15) 業道の超越 (Ⅰ)

2011-11-20 18:07:13 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 問曰 『業道経』言業道如称重者先牽・・・・・・(『業道経』に言はく、業道は称の如し。重きもの先ず牽く・・・・・)(真聖p192・聖全Ⅰp309)

 これは第六番目の問答である。ここからまた問題の内容が新しくなってくる。仏教の経典は業道を語っている。業道経は特定の経典ではない。業道経とは何経を指しているのか明らかでない。業道は秤の如く重いものが先ず牽くということが業道についていわれている。ここでは五逆罪であろう。五逆罪ということが業道ということになっている。それが観無量寿経によってみると、十念念仏によって五逆罪を犯したものが救われるといってある。そこに新しく問題を出しておられる。観経下々品の場合は迴真懺悔して十念念仏すると五逆罪を犯したものも往生することができると 「人ありて五逆十悪を造り諸々の不善を具せむ・・・・・・無量の苦を受くべし」 そういう五逆等の罪を犯したものは悪道に堕するという。これは一つの業道自然の道理として重きもの先ず牽くという必然性である。しかるに 「命終の時に臨んで善知識の教えに遇うて南無阿弥陀仏を称えしむ・・・・・・」 これは観経のままの言葉ではない。ここにこれに続いて 「安楽浄土に往生して即ち大乗正定聚に入ることを得」 とあるが、観経にはこの大乗正定聚の言葉はない。これは曇鸞大師の信仏の因縁を以ての易行道という大師のお考えによって、下々品の趣意を取って述べられた言葉である。つまり五逆を犯した罪人が十念念仏即ち念仏の信心によって、永遠に業道自然を超えて安楽浄土において不退を得ると。故にこれは観経下々品と大経本願成就文とを二つ一緒にしたお言葉である。

 「是の如く至心して令声不絶十念を具足して便ち安楽浄土に往生して即ち大乗正定聚に入りて畢竟して不退を得て三途諸苦を永く隔てむ」(聖全p309 - 「問曰。『業道經』に言たまはく。「業道は稱の如し。重き者先づ牽く」と。『觀无量壽經』に言たまふが如し。人有りて五逆・十惡を造り諸の不善を具せらむ。惡道に墮して多劫を逕歴して无量の苦を受くべし。命終の時に臨て善知識の敎に遇て南无无量壽佛と稱せむ。是の如き心を至して聲をして絶へざらしめて、十念を具足して便ち安樂淨土に往生して、即ち大乘正定の聚に入て、畢竟じて退せず。三塗の諸の苦と永く隔てむ。」)

 これは本願成就の文のお言葉である。それを下々品に一緒にして述べられたものである。つまり念仏の信心を得れば、永遠に業道自然を断つ、そうすると業道自然の道理というものはどうなるのか。五逆罪を造ったものが、五逆罪のみならずそういう罪を造ったものが、ただ十念念仏で業道自然を断つというのはどういうわけか、十念念仏と五逆の罪とを較べてみると五逆罪の方が重い。重いものが先ず牽かねばならぬ。こういうことであれば業道経と観無量寿経とは矛盾する。

 先づ牽くの義、理に於て如何ぞ。又曠劫より已來、備に諸の行を造て有漏の法は三界に繋屬せり

 こういう風に重ねて業には先ず牽くという義に今一つ繋がれるということがある。無始嚝劫已来悪業を造って来た罪人が、十念によりて業道自然に超越するということはどういうことか、こういう問題である。先ず牽く、業を造ったものは三界に繋がれるという繋業の義という業道の道理と、念仏の信心との間にいかにしても否定することのできぬ業道の必然性を破壊するという難がありはしないかというのである。        (つづく) 次週はそのⅡを配信します。


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