唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

善の心所ー「慚」・「愧」 その(1)

2009-11-01 10:34:40 | 心の構造について

自他を分別することは駄目なのではないのです。私たちは分別してしか生きていけないのですから分別が駄目だと言ってしまえばどのように生活をしたよいのかわからなくなります。自己中心的に他を支配するあり方が迷いを生む根源であるといっているのです。信頼は人間関係にとっては大切な社会生活を成り立たせるうえでなくてはならないものです。信頼関係なくして私たちの世界は成り立ちません。これも私益・国益のためにということであったら結局は核の問題・環境の問題・平和の問題についても、対立を深めることになります。社会にとっていかに信頼が重要であるということが、イギリスのレガタム研究所が発表した「繁栄指標」を見ても明らかです。「信頼できる人間関係と堅固なコミュニテイー」が必要であると定義しています。日本はこれが手薄であると指摘しているのです。地域の付き合いや連帯が濃いと政治が活性化し、信頼を通じて経済活動も効率的になる。とも指摘しています。このような指摘を受け私たちはどのようにして信頼関係を築いていくのかが課題となります。仏教はこのテーマに仏智という形で応えてきているのです。分別や信頼も真の智慧がなければ我他彼此になり、我を満足させようとするエゴイズムになってしまうのです。仏教では真の智慧のことを無分別智といいます。真理を見る心の働きです。「諸法は無我であり、諸行は無常であり、涅槃は寂静であり、一切は苦である」とは仏陀釈尊が見出された真理なのです。唯識の行者は「唯識無境」といい、ただ識という働きだけがあって、境という外界・環境世界は存在しないと指摘しました。要するに自分の外に他者という実体的な存在はないという真理を提言したのです。この智慧が根底にあって、はじめて分別や信頼が生き生きと輝きを見せるのではないでしょうか。人間存在の根拠となるものが仏智なのです。「仏智うたがうつみふかし/この心おもいしるならば/くゆるこころをむねとして/仏智の不思議をたのむべし」と親鸞聖人は私たちの仏智を疑うことの罪について述べておいでになります。自力の心を頼みにして善本・徳本を修する仏智疑惑の罪に楔をうちこまれたのです。また仏智を疑惑することの罪は智慧もなく、三宝を見聞しないため有情利益はできないのだ、と指摘されています。私たちは他者を利用するという関係ではなく、他者によって「支えられている命」の事実に目を開くべきだはないでしょうか。


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