「仏智は第一義である。第一義を疑惑し迷うている。疑惑と無明とには一応区別がある。迷うという、迷謬するということを唯識でいっている。無明とはこの迷いをいう。疑惑は第一義に昏い。第一義がはっきりしない。それに対して謗法というのは迷いに対して謬という。無明によって迷う。迷うが故に謬まる。誹謗正法の根底には不了仏智というものがある。仏智に対して無明がある。従って本願を疑うと、疑うというときは本願に対する疑惑である。弥陀智願海といって智に対しては無明がある。願に対しては疑いがある。こう大体の約束がある。不了仏智の故に本願を疑惑する。そういうものが迷いである。そうするとそこに誹謗正法ということが起こってくる。これは謬である。積極的なものである。だから誹謗正法というようなことはそうだと思うが、その根底には仏智疑惑ということがあると思う。誹謗正法といったときはどういう意味があるか。誹謗正法の根底には仏智疑惑がある。そういうものは闡提といってよいかもしれぬ。誹謗正法というところに、いかなる独自の面目があるかといえば、曇鸞大師は仏法否定といっていられる。そこに謗法の面目がある。誹謗正法ということは直接に判らぬ無明なる故にである。これが無明であるといったときには無明はない。無明といったときはもっと直接的なものである。誹謗するところに明らかになる。誹謗性というところに一つの反逆性というものがある。反逆ということ、ここに誹謗正法の独自の面目があるということを明らかにして頂くのである。
それで前にいったように、人間それ自体を考えてみると人間が人間に対するそれ自体が問題となる。そこに宗教の問題がある。人間自体というところに宗教の根拠がある。というのは本願というのは
十方の衆生 至心に信楽して我が国に生まれんと欲え 乃至十念せんに若し生まれずんば正覚を取らず
と願われたから、十方衆生の本願である。一切衆生というものを救わんという本願である。誹謗している人間も十方衆生のなかにいる。十方衆生というなかには五逆も謗法もある。本願のなかに在りつつ本願に反逆するものがある。それ故人間が人間に対するに先立って仏に対するというが、仏は超越者という如きものではない。人が神に対する関係は、われわれが絶対関係というものを相対関係の形で考えるから、それはどこまでも相対関係を出ないで真の絶対とはならない。人と人とは汝と我の関係である。そこで例えば 「汝一心正念にして直ちに来れ」 といってあるがあれが欲生我国を意味する。あそこに如来が衆生と永遠の隔てを隔てて呼ぶと、こういうのであるが、永遠の隔てを以て呼ぶというところをよく注意しないと、如来が 「来れ」 と叫び、衆生が 「ハイ」 と答えるように思う。それは絶対関係を相対の形で考えているのである。しかしまたそういう形でないと絶対をあらわすことができない。それで相対関係を以て絶対をあらわすのである。如来と衆生とは、我と汝との形である。如来諸有の群生を招喚したまう勅命なりと親鸞聖人が解釈されたのは、善導大師の二河譬喩による。二河喩もやはり我と汝との形である。相待関係では我と汝とでは実在関係である。絶対関係というところではそれは象徴というものである。我というものが如来の勅命である。我としてある如来の勅命が、勅命があって我が聞くのではなく、勅命というところに我がある。そこに人間存在が確定される。人間の実存が成り立つ範疇である。それで人が仏に対する関係は仏が在って人間に関係するのではなく、仏は人間の成り立つ根拠である。だから反逆することは他に対するのではなく、自己の根拠に反逆することである。本願は十方衆生と呼んでいる。だから五逆も謗法も十方衆生のうちに在る。十方衆生があって本願があるのではなく、本願より十方衆生が出てきた。本願以外に十方衆生はない。本願以外に十方衆生があるというようなものは妄想である。本願のなかに十方衆生が生まれてきた。そういうことはちょっと解らない。自覚の世界である。自覚的に十方衆生というものを考えると自己の成り立つ根拠がある。本願を信ずるというも、本願の廻向の信心である。本願を本願が自己を承認する用きを信心という。廻心というは一般の俗語である。仏教語では依止を転廻する。転廻とは主体が確立されることである。
(つづく)
次回は11月13日に 「自力の罪」 配信します。
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