唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『自己に背くもの』 安田理深述 (12) 本願の正機

2011-10-30 20:01:50 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 「さて前に述べてきたことを繰り返すことになるが、浄土論註上巻の解釈を終わって曇鸞大師は、天親菩薩の浄土論の流通文の普共諸衆生往生安楽国というお言葉の衆生というものをおさえて、衆生とは何ぞやという問題を提起された。そこに浄土論の願生の機というものに触れてきた。天親菩薩が自らいかなる立場に身を置いて普共諸衆生往生安楽国といわれたかということは、直ちに天親菩薩が浄土論を製作された立場の問題であるのみならず、それは本願の正機という問題である。本願の正機とは何か。天親菩薩が始めに 「我一心・・・・・」 と願生されたのは単に個人の問題でなく、一切衆生と共にと人類の問題において自己の問題を解決された言葉である。自己の問題を人類の問題とし、人類の問題を自己の問題として解決された問題というものこそ阿弥陀の四十八願である。一心とはその解決である。普共諸衆生とは願成就文では諸有衆生である。これはお話してきたところであるが、こういう問題からやがて唯除の問題に触れてくる。曇鸞大師はかくして問題を展開してきておられるが、これが善導大師を通し更に親鸞の教行信証を通してきた歴史的問題の先尖端を切られたというところに大きな意義がある。教行信証を通してみると、本願文では謗法を善導大師の謗法闡提迴心皆往のご指南を通し、更に涅槃経を以て唯除五逆誹謗正法の問題を解決しておられる。それは経典を以て経典を解釈するという形であるが、涅槃経は仏陀最後の説法である。如来去って後涅槃に入るべし、三ヶ月後には涅槃に入るだろうといわれている。仏陀最後の旅行記を主題にして経典であり、仏陀入滅を機縁としてそこに不生不滅の大涅槃というものを開顕しようとした経典である。そしてこの涅槃経は、我、阿闍世のために涅槃に入らずと悪逆の阿闍世を待って入涅槃を前にせられた釈尊の大慈悲に阿闍世が遂に救済されるという劇的な物語が説かれてある。観経の機であった韋提希は凡夫の善人であり、そこに説かれる未来世の悪人の代表たる阿闍世は凡夫の悪人であり、ここに一切善悪の凡夫人を憐愍する釈尊の悲心がある。大涅槃とは大慈悲である。 「阿闍世の為に涅槃に入らず」 阿闍世が救われなければ自分も涅槃に入ることができぬ。こういうことが唯除のかくれた問題をあらわしている。阿闍世のために涅槃に入らずとは一つの密義即秘儀を有している。阿闍世のために 「為に」 というのは何かというに一切衆生ということである。阿闍世は五逆罪である。五逆罪を犯したものを阿闍世という。 「為に」 は一切の凡夫人である。観経の為未来世の衆生と同様である。未来世の衆生の為にという。それは韋提希が自分だけの救いのために仏陀の十六観の説法を請うたように見えるが、そうではない。韋提希は自分の救いを請うたのであろうけれどもその奥には密義をあらわしている。それを別選所求といっている。つまり韋提希が諸仏浄土のなかから特に阿弥陀仏のお浄土に往生したいといっている。そこに法蔵菩薩の体験がある。選択本願の体験がある。未来世の衆生の為にというあの一句に、善導大師は感激され、あそこに人類の問題が開かれた。あそこに 広開浄土門 の讃嘆のお言葉を放っておられる。そこに韋提希の志願によって永遠の人類の問題を開顕されたのである。そこに韋提希の意識を超えた意識がある。人類の問題がある。われわれが人類の問題を救うと意識しているようなものでない。未来世の衆生のためにというそれと相応して阿闍世のためにといってある。 「為に」 とは一切凡夫人である。凡夫といっても善人悪人があるが、阿闍世は悪逆の凡夫人である。悪凡夫のために涅槃に入らずということは一切の凡夫人のために涅槃に入らずということである。天親菩薩が普共諸衆生といわれた衆生ということは悪人の凡夫というところに立場をおかれた、そういう意義を曇鸞大師が開顕されたのである。

 天親菩薩が、世尊我一心と願生を述べられた 「我一心」 は個人の我ではなく、一切人類の苦悩の問題を自己の問題として開顕されたのである。阿弥陀仏の本願の上に自己の問題を見出すと共に、人類の問題をそこに見出されたのである。願生道というものは単なる個人の問題ではないということを語っている。我一心ということを普共諸衆生は偈の両端に相照している。ここに衆生という言葉を手がかりとして曇鸞大師は願生の機を定義されたのである。そして本願成就文と観経下々品との二経を以て曇鸞大師が衆生というものを明らかにせられたことは前述の通りである。それは単なる私見ではなく経典に照らして衆生というものを明らかにせられたのである。

 が、そこにいろいろ考えられることもないではないが、その範囲を出ないので今少し練らないとお話できないように思う。ただ経文を拝読したと一応の解釈に終わっておく。曇鸞大師は大経と観経との比較を以て、そういう形を通して問題を明らかにせられた。経典を離れて自分勝手なことをいっているのではない。経典に即して問題を明らかにしてゆく、こういうところから大経の唯除と観経の下々品の五逆とを通してそれらを対照してみると、五逆と謗法、大経では五逆を除くと、観経では五逆も救われると、ああいう径路というものはなかなかない。つくりとつくる悪業煩悩も間に合わぬ。転教口称といって念仏の教えを聴聞する余裕もなく、ただ南無阿弥陀仏を称えよというところまでいっている。そういう非常な場合を挙げている。それが涅槃経には具体的に出てくる。下品下生を代表しているのが阿闍世である。親鸞はその涅槃経を照らして更に唯除の問題を明らかにせられた。観経では五逆罪を犯したものも救われるとある。大経では十杷一からげにいってあるが、観経・涅槃経を通してみると、五逆が始めて救われている。そこに大経・観経の矛盾がある。謗法は程度が悪いというようなものではなく、五逆が救われても謗法は救われぬということが明らかになってくる。

 五逆がわれわれの反省の内容である。人間理性の限界内にある。曇鸞大師は明瞭に二つの質的相違を明らかにされた。五逆罪は世間的、謗法罪は出世間的罪である。曇鸞大師もその当時の思想に応じて仁義礼智信を掲げておられる。人権の尊重というようなものかもしれぬ。五逆は人間と人間との関係における問題である。人と人との間柄に関係するものが社会であり、倫理的な問題である。それに対して第一義は人と神、人と仏に対する関係である。それが出世間の問題である。人が仏に関係するものとは何かというに、人が人に関係するところに世間道があるが、そこには大きな根源的関係を前提としている。人がそのものがどういうものか、人間が人間として措定されている関係がある。人間の絶対関係がある。そこにおいて初めて人間が人として成り立つ関係である。だからわれわれの理性とか実践理性とか良心とか、そういうものの対象となる。だから誰でも人間であればわかる。阿闍世が五逆罪を犯したときに六師外道がなだめた。なだめればなだめるほど、問題になる。六師外道は皆五逆罪を犯したことを欺瞞する方法を与えた。耆婆だけが阿闍世の懺悔というものを称讃している。悔いていることを称讃している。そこに起きた阿闍世の懺悔を手がかりとしている。六師外道は懺悔させない。懺悔は罪を肯定する。罪を己に引受け荷負する。そこにはじめて懺悔がある。そのとき即ち懺悔というところに人がいる。慚愧なきものを畜生というといってある。人と動物との区別される一点は懺悔にある。責任とは自由意志である。他より強制をまつことなく自由意思を以て引受ける。そこに懺悔があり、人が成立する。そういうように五逆罪は道徳的意識、人間意識の内容と成る。五逆というものを反省し得るところに人が成り立っている。しかし人間というものは反省を超えたものである。人間そのものというものは反省内容にならない。五逆罪というものは人間の反省の内容になってくれる。そういう点が曇鸞大師の問答により明らかにされるところである。本当に人間の、むしろ人間のこの意識を超えた自己自身に触れる問題、ここに誹謗正法があり、それを深めて求めてゆけば無明ということである。不了仏智、仏智疑惑である。             (つづく)

   次回は11月6日(日) 「仏智疑惑」 を配信します。


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