唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『自己に背くもの』 安田理深述 (14) 自力の罪 

2011-11-13 16:22:11 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 「観経・涅槃経というものを比較対照することによって本願成就文の、特に誹謗正法というものの意義が明らかにしてきたところに、曇鸞大師のご努力があったのである。たとい五逆は救われても謗法は救われない。仏法を否定するものが仏法に救われるということはあり得ない。本願が本願を排斥するのではない。本願を排斥するものをも包むところに本願はある。自身が自身を除いている自己矛盾である。そういうように特に謗法の重い咎を知らしめる。誹謗正法を自覚せしめる。こういうことが唯除の根本精神である。だからいってみれば、問題は簡潔にいえば、本願においては五逆罪はあある意味では恐るべからず、第一義に立てば五逆罪を恐るべからずということになる。五逆罪を恐るべからずということは、裏からいえば善も欲しからず、善が助けられる益になるのでもなく、悪が障りになるものでもないことをいい得るであろう。ただ本願における、もし罪あらば本願自体が罪だということである。そういうことによって曇鸞大師の唯除は信心為本をあらわし、本願は信心を要とするということになる。涅槃経の説法は意義深い言葉である。信巻きの終わりを読むと、始めは阿闍世王の倫理的な煩悶苦悩を描き、慚愧のいたみ、堕地獄のおののきが、六師外道との対話を通じて述べられている。ところが阿闍世の迴心懺悔を経て述べられる仏陀の説法が後にある。六師外道は詭弁を述べている。罪悪というものはない。貴方の罪でないという。阿闍世の罪悪の意識を否定し、地獄を否定する。 「若し常に愁苦すれば愁い終に増長す、人眠りを好めば眠即滋く多きが如し」(『信巻』真聖p255) といって五逆罪を犯したことにくよくよするな、くよくよすると反って身心を害ねるだけの無駄ごとであると、詭弁を弄して阿闍世の罪を苛責をなぐさめている。ところが阿闍世が罪を懺悔して救われた後、仏陀の説法もこの六師外道とさして変わっていないようなことを述べていられる。罪の固執というものを淳々と述べておられるが、六師外道と同様な詭弁の形をとっている。何も貴方が父を殺したというが、父王も殺される因あって殺されたのである。何も貴方に罪はない、と六師外道と同じことをいっていられる。つまり同じ言葉が迴心を境としてその意義を一変してくる。迴心とは自力心を捨てる。迴心懺悔する。仏智疑惑を懺悔してそれを捨てる。迴心について自らの善しと思う心を捨て、善を頼みにしない。同時に悪しき心を賢く省みず。省みるは善悪のはからいである。それは世間の立場である。五逆の人間は人間の良心の限界内にある。第一義諦に立ってみれば道徳反省は一つの小賢しき分別となる。善を頼みとしないが、悪を見つめるというのは実のところ善を頼む心の裏返しである。それは善を頼みにする心と同じである。善なるが故に救われるというのが傲慢であるならば、悪なるが故に救わるというのも邪見である。ともに人間の理性である。だから論より証拠で悪を省みるということは悪を省みる力を自認している。そこに反省する能力があるということを自認している。そういうことに対して悪を賢しく省みないと自力の配慮を切り捨てるところに仏陀の詭弁と六師外道の詭弁というものの差異がある。

 要するに、本願を疑うということが最高の罪である。自力が最高の罪である。だから唯除五逆誹謗正法が信心為本ということを明らかにしている。曇鸞大師は明らかに五逆罪と謗法罪との質的相違のあることを認められたが、その五逆と謗法との関係はどうであるか、両者は無関係にあるのかということを問題にしていられる。そこに五逆の根底には謗法がある。謗法を根底として五逆が成立するところに、両者の本来的な関係を見出していられる。さすれば五逆罪を犯すところに既に謗法をば前提としている。教行信証にくれば、五逆について三乗の五逆と大乗の五逆罪とを区別しておられる。大乗の立場では誹謗正法が入っている。三乗の立場では謗法はない。親鸞は唯除の内容を信巻の終わりに経文を引いて三乗の五逆と大乗の五逆との別あることをいっていられる。(真聖p277~288)大乗では五逆というところに謗法を包んでいる。五逆と謗法を区別しつつ、主体的に謗法を根底として五逆の成立していること、直接的には五逆罪、間接的には謗法ということを語っていられるように思う。そういうことによって唯除を置かれてあるということは十方衆生の機の自覚というものを明らかにされた。一切の衆生というものの機の自覚として、唯除を置くことによって唯除を自覚せしめる。大乗の五逆からいうと一人も逃れぬ。一人も悪人・凡夫でないものはない。自覚すれば一人も残らず悪人・凡夫である。一切善悪凡夫人である。こういう自覚を通してはじめて十方衆生至心信楽欲生我国の三信、あの三信とは 「他力の信心なり」 といって、自力の迴心懺悔をあらわす。自力の迴心懺悔を通して迴向というものを明らかにするのである。われわれが深く考えてみなければなたぬことは、現代親鸞の精神、即ち真宗の信仰の不透明になった一番の原因は信仰の決断を喪失していることである。今日の真宗は天下りな直接的信仰に転落している。他力中毒にかかっている。決断がない。信仰が死んでいる。それは実に懺悔を通さないからである。決断は懺悔の精神にある。今日真宗の教学も布教も生気がない。法文いじりになっている。それは懺悔が失われたからである。親鸞聖人によって開顕された教行信証の精神というものは、信仰の自覚、それを他力迴向の信心というが、信仰というものは陰気なものではない。信仰の超越性であり、今日の言葉でいえば他力迴向の信心の自覚とは、人間の根源的自覚という。人間の根源的自覚にたつ、それは内に入ることではなくして却って外に出ることによって自己の根元に立つのである。そこに信仰の超越性がある。その必然的関門は懺悔である。その懺悔がない、それを失ったところに今日の真宗のふるわない原因がある。親鸞は涅槃経の言葉を以て無根の信といっている。信仰の超越性である。生まるべからざるものが生まれた。私の上に、信仰は私の上に君臨した。カール・バルトは信仰というものがわれわれの上に現臨(ゲーデンバルト)したといっている。無根の信とはそういうものである。信仰は私のうちにおける一つの体験ではない。私はそれに召され、それに立って私自身が変革されるようなものである。だから親鸞は信仰を海という。だから私が反って自己から出ることによって達する自覚である。だから私に君臨してくるものは名号である。名号の外に信心はない。名号が信心である。名号に信心をプラスするのではない。名号を意識することではない。名号のなかにわれわれが生まれる新たな事実に目をさますのである。そこに信仰の絶対客観性が明らかにされる。絶対批判、人間の根源に対する絶対批判というものがなければならない。唯除が置かれていることはそこに帰着する。不可能だということに達する信心である。   (つづく)

          次回は 「業道の超越」 を配信します。


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