唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 別境 ・ 定について、(2) ・ 釈尊伝(97)

2010-09-06 23:05:50 | 心の構造について

   釈尊伝 (97) 伝道宣言 第二章 仏陀の弟子たち

            - 千二百五十人 -

 ただ漢訳経典の方に四阿含というのがありまして、長阿含・中阿含・増一阿含・雑阿含の四つが伝わっております。長阿含になりますと、阿難が主として対告衆といいまして、聞き手になりまして、そこに「如是我聞、一時仏、在・・・」とあり、それから千二百五十人の比丘という言葉がでてくるのであります。この千二百五十人の比丘というのはどういう意味になるのか。六十一人の比丘のときに発せられた伝道宣言は、これは一人一人が仏法僧の三宝を受持するものになったという意味で、きわめて大切な意味を持っておりました。

 いま、千二百五十人という比丘衆が、はじめて語られる形式は、また意味がありまして、必ずしもこれは数字ではない。釈尊が仏陀として、世の中の人にその名が知られたという意味で、釈尊の仏陀としての徳をあげている意味があります。

              - 三迦葉 -

 その比丘衆の中に三迦葉があげられていますが、その中で一番上の兄の優楼頻蠃迦葉というのは外道の大論師であったといわれています。優楼頻蠃迦葉は火を神聖なるものとして拝む拝火教であったというのです。その優楼頻蠃迦葉は五百人の弟子をもっていたといわれ、仏陀がそれを教化せられたところ、優楼頻蠃迦葉は五百人の弟子とともに仏弟子となったわけです。それで彼はその祭祀に使う道具を流したのです。と、その流れてきた道具をみて兄弟二人が、それぞれ二百五十人の弟子をもって河下にいたのですが、いずれも一番上の兄に何か災難があったのではないかと心配してやってきて、兄が仏陀の弟子になったのだということを聞いて、二人の兄弟もそれぞれ弟子をひきいて仏弟子となった。それで千人の弟子をそのときに得たというのです。優楼頻蠃迦葉は、その地方では有名な大論師、いわゆる大仙人で、五百人の弟子をもっているといえば随分の知識人です。有名な人間です。それが三人とも若い仏陀の弟子になったというわけです。この時、仏陀は成道以後、間もないとすれば三十五才から四十才までの間としてよろしいでしょう。その時、優楼頻蠃迦葉の年令は百二十才であったというわけです。本当の年令はどうであったか、誰も勘定した者がいないからわかりませんけれども、まず当時百二十才ぐらいまで生きているのが長生きだったのでしょう。

 釈尊が八十才で亡くなったことを今日では長生きであったというが、その当時ではあまり長生きじゃないのです。釈尊は若死の方に入るのですから優楼頻蠃迦葉が若い者の弟子になったというので、仏陀はよほど偉い人であろうという意味で釈尊の名が世に鳴り響いたというのです。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より

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 第三能変 別境 ・ 定について、その(2) 専注とは

 「爾らずんば、見道の諸諦を歴観(りゃくかん)するに、前後の境別なるを以て、等持(とうじ)無かる応し」(『論』)

 「その相見道に十六心として境を観ずるに、まさに等持なかるべし。要ず前後にただ一境のみを縁ずるを以ての故に。彼は一々の念にみなその心に住し、一境において転じ、深く所縁をとるが故に定あるなり」(『述記』)

 (意訳) 専注とは、ただ一つのものを対象としている、という意味ではない。爾らず(そういう意味であったならば)、見道(相見道)において諸諦(四諦十六心)を歴観(順次観じて)する時、前後の境が別(異なる)になるので、等持(定)はなかるべし(存在しないことになる)。しかし、相見道でいう、四諦十六心を順次観じて、刹那刹那対境を異にするといっても、一境一境に深く心を注ぐから、これを専注という。「一境において転じて」、刹那刹那・一瞬一瞬、別々の対象であっても心を注ごうとする対象に心を注ぎ、(深く所縁をとるが故に定あるなり)その対象を深く把握するということ、これによって定が生じるのである、といっています。

 生きている事実は刹那滅生ですね。刹那刹那に滅しては生じて命は保たれているわけです。そして関係存在と言われますように、常に何かと関係をもって私の命は支えられて生きているのです。もしその関係性を断ち切ってしまえば、私の命の存在性はなくなりますし、生きていくことはできません。私は定というのは、一瞬の命との対話だと思うんです。前後の命は対象を異にしているのですから、前念の命に死して、後念の命に生きるという、その命との対話によって定は生じるということではないでしょうか。現存在の命との対話が専注といわれる内実であると思います。


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