蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

誰も知らない

2005年06月14日 | 映画の感想
カンヌで賞を取っていなければ、おそらくこの映画を見ることはなかったので、まず映画祭の審査員の人たちに感謝したい気持ちです。

親に見捨てられた4人の子供の話という程度の予備知識はありましたが題材になった事件については知りませんでした。冒頭、タイトルバックで主人公の男の子(明)が汚れた格好でスーツケースを電車で運ぶシーンで、子供の死体を運んでいることを暗示しており、思ったより随分暗い話なのかと、ちょっと先を見るのがつらくなりました。(そして実際にも全編を見通すのがつらかったです)
(見た後で調べてわかったのですが)実際の事件は非常に陰惨で、映画の内容は、骨子はほぼ同じとはいえ、相当にカドをけずった丸いものになっているのがわかりました。
確かに映画の中でも子供の一人は死んでしまうのですが、見ていてショックを受けるような描き方にはなっていません。むしろ子供たちが久しぶりに4人そろって外出するシーンや明が野球をするシーンなど明るい雰囲気のところもたくさんあります。

すでに言い尽くされたことですが、この映画を見ていると、映画のエピソードが自分の隣家で起こっている事件のように感じられてしまい、冷静に考えるとひたすら悪い方向へ進んでいる子供たちを助けられない自分がはがゆく思えてきます。
例えば「プライベートライアン」のオマハビーチ上陸のシーンは臨場感たっぷりで、弾がとんでくるような感じがするほどです。が、しかし、そこで感じられるのは「よくこれだけうまく撮れたなあ」という監督の腕前とかお金のかかり方に関する感心でしかありませんでした。
そうした感じ方とは違う、自分の感覚が本当にゆさぶられているような感じ。作り物だと十分承知しているのに、スクリーンの向こう側に立たされているようなおかしな感覚。

例えば・・・
タイトルバックで死体をつめたスーツケースをなでる明の指は汚れていました。最近の映画を見るとこうしたシーンでの汚し方がプラモデルの汚し塗装みたいで、汚れているのに画面が清潔感に満ちているようなこともよくありますが、明の指の汚れは”汚した”ものではなくて”汚れた”ものに見えました。


映画の中でも現実の中でも、子供たちの苦境を誰も知らなかったわけではありません。たくさんの人が気づいていました。しかし、誰も知らなかったのと同じ結果を招いてしまいました。
何もできない自分がはがゆかった、と書きました。もし、隣家で同じことが起きていることにうすうす気づいていたとしたら、本当に私は彼らだけが作った小さな結界に踏み込んで彼らの命を守ってやるだけの「面倒」に耐えられるのだろうか。
その問いに即座に「もちろん耐えられる」と答えられないのが、この映画を見ていてつらかった本当の原因でしょう。
コメント
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