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本田宗一郎、ものつくり伝承館を見学

2018-04-08 06:09:32 | 旅行記

はるばる浜松は天竜の本田宗一郎博物館へ行ってきました。


昨年末に乗り鉄テッチャンとして、天竜二俣尾線に乗りに行ったときに、偶然見つけてその日は行けなかったので、いつかいつか行かねばと思っていた。


そりゃ日本を代表する立身出世の見本みたいなお方です。


今のホンダを見たら嘆くだろうなー。


と言ってはみもふたもなくなりそう。



国の重要文化財に指定された古い建物を使っています。


本田宗一郎は静岡県浜松市天竜の生まれだそうです。


訪れた時間が15:00ぐらいと遅かったが、大勢バイクの団体さんがいらした。


建物のお隣に由緒ありそうな神社があった。


まさか、本田宗一郎神社じゃあるまい、、、。



車は止めるなと書いてあったので、300mほど離れた小学校の駐車場を使わせてもらった。


そこは学校用にしちゃだだっ広かった。


この博物館は、企業のホンダが作ったにしては小さいから、、、もしかして地元の県か市町村が作ったのかもしれない。



入り口にあった自転車に取り付けて使う、モペットのようなエンジン。


バタバタと言っていたかな、、、。


2サイクルの30ccに満たないようなエンジンです。


たしか、、、戦時中の無線機用の発電用エンジンを使ったのが最初じゃなかったかな。


廃物利用です。


富士重工や三菱が作ったスクーターのタイヤは、戦時の爆撃や戦闘機の尾輪を利用したものだったはずです。


戦後に余った物を利用して、民間工業は発足した。



最初からカブだった。


いいデザインですね。


本田宗一郎はデザインにうるさかったと書いてありました。


こんな野暮なものを作りやがって、、、と工員をスパナでぶん殴ったんだろうなー。


今じゃパワハラと訴えられてどうしようもなかったようなオヤジだ。



丸い水筒がガソリンタンク。


ガソリンは重力でキャブレターに落ちてくる。


白いタンクの下にあるのはガソリンストレーナーでしょう。


粗悪なガソリンには不純物がいっぱい混ざっていた。


大昔にアマゾンラリーで南米を走った時にも、ガソリンの不純物にはてこずりました。


1日走るとストレーナーが詰まったものです。



もう少しバイクらしくなったC型。


まだエンジンは2ストロークのままだった。


ヤマハもバイクを始めたが、デザインはホンダ以上に素晴らしかった。


元々、楽器制作で培った蓄積がヤマハにはあったからだ。


ホンダは町の工場からスタート。



もしかして、ギアチェンジはあの棒で手動か?


ペダルがまだあるし、、、。



フロントサスペンションはアールズフォーク型で、ダンパーはないから摩擦だけのよう。


いわゆる摺動式という何もしていない、、、。


アールズフォークはダブルアームでささえる、4輪の後輪に良く使われたタイプ。


ダブルウイッシュボーンをフロントに使っています。


ガータータイプと言われていたような、、、。


日本名だと、、、松葉杖タイプ、、、。



ホンダもスクーターを作ったが、流麗だが巨大すぎて重くてどうしようもなかったそうだ。


これが売れずにホンダは倒産寸前までいった。


それを、なんとか挽回しようと、海外のレースを目指して出て行ったのだ。


その手始めにと国内で最初のバイクレース、浅間に出たがヤマハにぼろ負けして本田宗一郎泣いたそうだ。


これじゃ海外にうって出る前に国内で負けちゃっうなんて、、、ということです。


でも、それでへこたれるような本田宗一郎じゃありません。


イギリスのマン島レースに、じつに頓珍漢なバイクを引っ提げていった。


意気揚々だったが歯が全く立たなかった。


それでも6位入賞だったので、日本国内は大騒ぎになって、倒産寸前だった本田技術工業の株価があがり倒産を免れることに


本田宗一郎がマン島のレーススタッフに「6位入賞おめでとう、これでホンダの株価が上がった」と電報を打ったところ、レーススタッフが「俺たちは株価のためにレースに来たんじゃない」と反対に発奮したそうです。練りに練って翌々年には、マン島の125ccクラスで1位から5位までを独占しました。


それが戦後の日本の発展のスタートになった。


すごい奴が東洋にいる!


それからしばらくして、ホンダが4輪に進出してF1に出て、、、空冷エンジンでレースに出るようになった。


それはそれは奇妙なF1カーだった。


こんなので走るのか???


私の記憶が正しければ、直線バカみたいな馬力があって直線は早いが、カーブに全く弱いへんてこりんなF1カーだった。


ホンダ技研工業内でも空冷エンジンを押す本田宗一郎と、水冷エンジンじゃなきゃダメという技術陣の対立が起きた。


さてさて、その時の会社はどうしたか、、、。


なんと、なんと空冷エンジンのF1カーと、水冷エンジンのF1カーの2台を作って、国内のサーキットで走らせてどっちにするか決めたそうだ。


今時2台も全く違う、エンジン形式もフレームも違うものを作ったんです。



上の車が水冷エンジンのF1。


下が本田宗一郎考案の空冷エンジンのF1。


エンジンが違うので空冷型はずんぐりむっくり。


ドライバーの位置も違いますね。


ウイングの取り付け場所も形も違う。


結局、、、若手工員グループに本田宗一郎は負けて、引退ということに。


どうみても、、、完成度に差があります。


本田宗一郎が手掛けたから、空冷エンジンは馬力がありそうですが、なんだかでっかくてずんぐりむっくりしています。


水冷エンジンのこのホンダF1カーはジョンサティーズ(リッチーギンザーだったかな)のドライブで、グランプリで優勝しました。1960年代か1970年だったとおもう。私は雑誌を見てワクワクしたものです。授業中に後ろのほうの席で、仲間と雑誌を読んでいて、、、先生からチョークを投げつけられたものです。でも投げられたチョークにあたったらバカで、それをサっとよけなけりゃカッコ悪くて仲間からバカにされる。ツワモノもいて授業中にもヘルメットを被ったままの者もいた。あれじゃ先生の声が聞こえないだろーーー。当時はフルフェイスのヘルメットなどは影も形もなくて、ジェットヘルにお椀のようなバイザーを付けていた。そんな輩(ヘルメット集団)が教室の後ろにたむろしているのは、考えてみれば異様だっただろう。いちおう進学校だったんですがねーーー。


本田宗一郎のずんぐりむっくりF1は、戦時中の日本の戦闘機に繋がります。


日本の世界に誇る傑作戦闘機の疾風は、米国のムスタングや独逸のメッサーシュミット、イギリスのスピットファイヤーなどと比べると歴然とずんぐりです。エンジンが空冷だったからですが、それよりも日本人の体形に似ていると言われています。性能(劣悪なガソリンに対応していたから、質の良いガソリンを入れれば、、、)はすごかったんですよー。


本田宗一郎は一線を引いて、それからは全く出てこなくなりました。清い引退だった。


本田宗一郎さんは全く接点がなかったが、ポップ吉村(ゴットハンド)さんは鈴鹿サーキットでよくお見掛けしました。


本田のDNAはどこに行っちゃったの、世界に出ていくときは、、、残業が月に300時間だったと書いてあった。それだけ熱中していたんだ!残業は会社の社員だったら禁止だが、個人の研究だったら許される、、、今ではね。オリンピックに出るような各種競技の選手たちには、残業なんて意識はないでしょう。本当は企業の研究も競技者と同じなんだと思いますがねー。ドイツやイタリアメーカーさんの研究者は、実際は今どうなんでしょうか? 


ものつくり伝承館のお隣の立派な建造物を調べたら諏訪神社だった。


残念、本田神社じゃありません。




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