フィナーレを迎えたあしかけ31年・30回のコンサートの始末は、僕らが付けねばならない。
僕はこの文章を「取り組んだ仲間」や「支えてくれたお客さん」に向けて書いている。
長くなり・やや如実的でない文章になるだろう。
仲間やお客さんには、出来れば読んで欲しいと持っている。ちょっと読むにつらい人達は、どうぞ、斜めに読みなさってくださいまし。
大学を出て地元に帰ってすぐ、仲間と「何かしようぜ~」と、あ~だこ~だと、話し合い「んじゃ、グループ作ってフォークでもやろう!」と、ロストの前身「館林音楽集団」なるものを立ち上げた。やっぱり、女の子も大事だよな~などと、歌の上手そうな女性なども最恵国待遇で迎え、練習などに励んだ。
僕は、大学をでて、さらに小学校の免許を取るべく、埼玉の「教員養成所」に通っていた。1981年の春であったか・・・
が、
そのグループ・・・スリーコードがやっとのギター弾き・声だけはでかいボーカルが、泥舟に乗っていただけだった・・・それでも、独身の若者は集まるだけで、嬉しかった。
フォークはもはや、ニューミュージックに衣替えをしていて、政治や暮らしの矛盾など主張をひっさげたフォークなど「変な音楽ね」と思われていた。
もはや音楽業界では商品にならないフォークだが、あの伝説の「中津川フォークジャンボリー」を立ち上げた笠木透氏は「今こそフォークは本来の作り手・歌い手の民衆に帰ったのだ」と、提唱し、日本のあちらこちらに「アマチュアのフォークムーブメント」がゆっくりだが、少しずつ広がりを見せ始めていた。
練習するだけではいつか終わる・・・フォークは思いを人前で歌って完結する音楽であった・・・
僕らは、6ヵ月後にコンサートを開こうと、目標を定めた。そしてグループの名前もフォークらしく変えようと、僕の愛して止まない、アメリカのオールドタイムのグループ「ニューロストシティランブラーズ」をぱくって、「館林ロストシティランブラーズ」と決めた。
やがて1981年12月・「あかんべ山顔見世コンサート・第一回あかんべ山」が始まった。場所は、共同保育所「ももの木」のリズム室、ほとんど義理人情で100人近い人たちが集まった。
その後、コンサートは仲間も増え・お客さんも増え、ももの木では収容しきれず、場所を今の「郷谷公民館ホール」に変えて続いてきた。2011年1月29日、30年目のあかんべ山の準備が始まった。耐用年数は過ぎ、壁や天井も怪しいこのホールは、既に新館が隣にそびえる。昔学校の体育館だったここは、幾多の旅芸人を寄せたりの風格や、「村に文化がやってくる」・・・そんな趣があって、僕らのコンサートに全くふさわしい場所であった。
準備は着々と進む。30年の熟練の技である。
やがて、名物「リハーサルうどん」。
漬物は旨い。
もはや「ゆで卵」は無くてはならないのだった・・・体を動かすのでおなかが空くのだ。
なんやかや、11時開始で3時には目鼻が付く。4時からはリハーサルに30分刻みで、出演グループがやってくる。
トップは「ソウル・ジョイ」というゴスペルグループ。あかんべ山では、5年目の新人達である。上手になった。
若いお母様から、熟女まで・・束ねる先生は男性なのだが、この中に1人とは、恐ろしいことだ・・・その者どもの子供が、走り回ってリハ。
懐かしい光景である。
独身だった僕らも、やがて結婚して、子供を産み、その子供が騒ぎ走り回った時代があった。アンケートに「子供がうるさい!」と書かれ、実行委員会は論議を重ね、「およそ分からないであろうと思われる子供たちが、コンサートの帰りの車の中で、耳に残った初めて聴いたフォークを口ずさむと言います。そんな子供たちも、その親も参加できるコンサートにしませんか?」と、パンフレットで訴え続けた。
皆、独身だったんだよな~
長い30年には、止めてゆく仲間を、何人も見送ってきた。
淋しさや、個としての自立の不確かさは、若者を集める。
その若者、結婚・妊娠・出産が、音楽を続ける第一のハードルとして、立ちふさがる。第二のハードルは子育て・・・そして今、職場では、責任ある地位で仕事に悩殺され、昨今の不況が、賃金の目減り・人員が削減されながらも仕事が減らない・物を売る生業では売り上げの減少となって追い討ちをかける。ノウテンキに歌っているように見えるだろうが、その第三のハードルに立ち尽くし「音楽を愛する・続ける」のは大変だったりしているのだ。ハードルを越えるには、意思の力が大事なことなのである。
どんな状況だろうと「歌を捨てるな!」「お前が歌わず、誰が歌う!」と僕は、すっと吼えてきた。
ユキとチエ・・・乳飲み子の頃から親に連れられコンサートにやってきたユキ。
やがて育ち、音楽を愛し、10代であかんべ山デビューをする。
こんなコンサートを作りたいと、大学の仲間チエとグループを作り、学びの場に仲間たちと「コンサート」を開いた。歌いたくて、全国を回り、やがて自分のやりたい職業を見つけ、ユキは沖縄で焼き物の修行・チエは「音楽の出来る喫茶店」を開いた。そうして離れ離れになったが、「私たちはここで育った。終わるなら出たい」と駆けつけた。
歌に人生が乗って、さらに素敵になっていた。
我が朋友のグループ「ウッドランド・リンギング」。
音楽の質で、コンサートを引っ張り続けたグループである。
ウッドランドでは、サポートに徹していたベース弾きが、初めて「ボーカルデビュー」。
「歌わずにはいられなかった」とすれば、それがこのコンサートの価値だと思った。
この後。延々と9時までリハーサルは詰まっていたが、この後僕はロストのリハを終え、本日放免となった・・・
日本の真のフォークを作り続け・全国のアマチュアのフォークを鼓舞し続けた、笠木透氏と、嬉しいことに毎年同じステージに上がることが出来ているロストであった。
昨年暮れ、栃木の佐野でご一緒した。コンサートがはねて、僕らは控え室に挨拶に行った。
OH!と迎え。
「あかんべ山が終わるのか!終わるなら俺を最後に出してくれ」と、皆の手を硬く握った。(多分僕ら男より、ロストべーべーをしっかり握っていたようにおもふ・・・・)
そして、すかさず
「ギャラはいらん!いらんからな」とのたもうた。
僕は、みんなの顔を見た。
うれしさと、驚きで舞い上がっていると、僕は見た。
あかんべ山の関係者にすぐ連絡した。皆僕らのコンサートに「笠木さん自らが来たいということに、誇りを持った」返事が返ってきた。
プログラムの変更や、少しばかりの仕事が増えたが、なんのそのである。
来る条件が1つ付いた。
「ツブク君と、ゆっくり話す時間を取って欲しい」という条件だった。
そんなわけで、リハ半ばで、僕は中座し、笠木さんの所へ向かった。彼らはリハーサルや会場を少し眺め、僕らの用意したホテル(やす旅館)にいる。迎えに行って、どこかゆっくり出来る場所で、少しのお酒付きで・・・と、考えていた。
迎えに行く道すがらは、嬉しさもあり、不安もありであった。
「きっと、今後について、色々言われるのかな~」などとね・・・・
こうして、前日は過ぎたのだった・・・・
笠木さんとの3時間はあっと言う間に過ぎた。楽しかった。
笠木さんの話は、後で、特別に書きます。
僕はこの文章を「取り組んだ仲間」や「支えてくれたお客さん」に向けて書いている。
長くなり・やや如実的でない文章になるだろう。
仲間やお客さんには、出来れば読んで欲しいと持っている。ちょっと読むにつらい人達は、どうぞ、斜めに読みなさってくださいまし。
大学を出て地元に帰ってすぐ、仲間と「何かしようぜ~」と、あ~だこ~だと、話し合い「んじゃ、グループ作ってフォークでもやろう!」と、ロストの前身「館林音楽集団」なるものを立ち上げた。やっぱり、女の子も大事だよな~などと、歌の上手そうな女性なども最恵国待遇で迎え、練習などに励んだ。
僕は、大学をでて、さらに小学校の免許を取るべく、埼玉の「教員養成所」に通っていた。1981年の春であったか・・・
が、
そのグループ・・・スリーコードがやっとのギター弾き・声だけはでかいボーカルが、泥舟に乗っていただけだった・・・それでも、独身の若者は集まるだけで、嬉しかった。
フォークはもはや、ニューミュージックに衣替えをしていて、政治や暮らしの矛盾など主張をひっさげたフォークなど「変な音楽ね」と思われていた。
もはや音楽業界では商品にならないフォークだが、あの伝説の「中津川フォークジャンボリー」を立ち上げた笠木透氏は「今こそフォークは本来の作り手・歌い手の民衆に帰ったのだ」と、提唱し、日本のあちらこちらに「アマチュアのフォークムーブメント」がゆっくりだが、少しずつ広がりを見せ始めていた。
練習するだけではいつか終わる・・・フォークは思いを人前で歌って完結する音楽であった・・・
僕らは、6ヵ月後にコンサートを開こうと、目標を定めた。そしてグループの名前もフォークらしく変えようと、僕の愛して止まない、アメリカのオールドタイムのグループ「ニューロストシティランブラーズ」をぱくって、「館林ロストシティランブラーズ」と決めた。
やがて1981年12月・「あかんべ山顔見世コンサート・第一回あかんべ山」が始まった。場所は、共同保育所「ももの木」のリズム室、ほとんど義理人情で100人近い人たちが集まった。
その後、コンサートは仲間も増え・お客さんも増え、ももの木では収容しきれず、場所を今の「郷谷公民館ホール」に変えて続いてきた。2011年1月29日、30年目のあかんべ山の準備が始まった。耐用年数は過ぎ、壁や天井も怪しいこのホールは、既に新館が隣にそびえる。昔学校の体育館だったここは、幾多の旅芸人を寄せたりの風格や、「村に文化がやってくる」・・・そんな趣があって、僕らのコンサートに全くふさわしい場所であった。
準備は着々と進む。30年の熟練の技である。
やがて、名物「リハーサルうどん」。
漬物は旨い。
もはや「ゆで卵」は無くてはならないのだった・・・体を動かすのでおなかが空くのだ。
なんやかや、11時開始で3時には目鼻が付く。4時からはリハーサルに30分刻みで、出演グループがやってくる。
トップは「ソウル・ジョイ」というゴスペルグループ。あかんべ山では、5年目の新人達である。上手になった。
若いお母様から、熟女まで・・束ねる先生は男性なのだが、この中に1人とは、恐ろしいことだ・・・その者どもの子供が、走り回ってリハ。
懐かしい光景である。
独身だった僕らも、やがて結婚して、子供を産み、その子供が騒ぎ走り回った時代があった。アンケートに「子供がうるさい!」と書かれ、実行委員会は論議を重ね、「およそ分からないであろうと思われる子供たちが、コンサートの帰りの車の中で、耳に残った初めて聴いたフォークを口ずさむと言います。そんな子供たちも、その親も参加できるコンサートにしませんか?」と、パンフレットで訴え続けた。
皆、独身だったんだよな~
長い30年には、止めてゆく仲間を、何人も見送ってきた。
淋しさや、個としての自立の不確かさは、若者を集める。
その若者、結婚・妊娠・出産が、音楽を続ける第一のハードルとして、立ちふさがる。第二のハードルは子育て・・・そして今、職場では、責任ある地位で仕事に悩殺され、昨今の不況が、賃金の目減り・人員が削減されながらも仕事が減らない・物を売る生業では売り上げの減少となって追い討ちをかける。ノウテンキに歌っているように見えるだろうが、その第三のハードルに立ち尽くし「音楽を愛する・続ける」のは大変だったりしているのだ。ハードルを越えるには、意思の力が大事なことなのである。
どんな状況だろうと「歌を捨てるな!」「お前が歌わず、誰が歌う!」と僕は、すっと吼えてきた。
ユキとチエ・・・乳飲み子の頃から親に連れられコンサートにやってきたユキ。
やがて育ち、音楽を愛し、10代であかんべ山デビューをする。
こんなコンサートを作りたいと、大学の仲間チエとグループを作り、学びの場に仲間たちと「コンサート」を開いた。歌いたくて、全国を回り、やがて自分のやりたい職業を見つけ、ユキは沖縄で焼き物の修行・チエは「音楽の出来る喫茶店」を開いた。そうして離れ離れになったが、「私たちはここで育った。終わるなら出たい」と駆けつけた。
歌に人生が乗って、さらに素敵になっていた。
我が朋友のグループ「ウッドランド・リンギング」。
音楽の質で、コンサートを引っ張り続けたグループである。
ウッドランドでは、サポートに徹していたベース弾きが、初めて「ボーカルデビュー」。
「歌わずにはいられなかった」とすれば、それがこのコンサートの価値だと思った。
この後。延々と9時までリハーサルは詰まっていたが、この後僕はロストのリハを終え、本日放免となった・・・
日本の真のフォークを作り続け・全国のアマチュアのフォークを鼓舞し続けた、笠木透氏と、嬉しいことに毎年同じステージに上がることが出来ているロストであった。
昨年暮れ、栃木の佐野でご一緒した。コンサートがはねて、僕らは控え室に挨拶に行った。
OH!と迎え。
「あかんべ山が終わるのか!終わるなら俺を最後に出してくれ」と、皆の手を硬く握った。(多分僕ら男より、ロストべーべーをしっかり握っていたようにおもふ・・・・)
そして、すかさず
「ギャラはいらん!いらんからな」とのたもうた。
僕は、みんなの顔を見た。
うれしさと、驚きで舞い上がっていると、僕は見た。
あかんべ山の関係者にすぐ連絡した。皆僕らのコンサートに「笠木さん自らが来たいということに、誇りを持った」返事が返ってきた。
プログラムの変更や、少しばかりの仕事が増えたが、なんのそのである。
来る条件が1つ付いた。
「ツブク君と、ゆっくり話す時間を取って欲しい」という条件だった。
そんなわけで、リハ半ばで、僕は中座し、笠木さんの所へ向かった。彼らはリハーサルや会場を少し眺め、僕らの用意したホテル(やす旅館)にいる。迎えに行って、どこかゆっくり出来る場所で、少しのお酒付きで・・・と、考えていた。
迎えに行く道すがらは、嬉しさもあり、不安もありであった。
「きっと、今後について、色々言われるのかな~」などとね・・・・
こうして、前日は過ぎたのだった・・・・
笠木さんとの3時間はあっと言う間に過ぎた。楽しかった。
笠木さんの話は、後で、特別に書きます。
じぃ~~んと胸が熱くなる文章でした。
熱い思い、寂しさ、伝わってきたよ~~。
子供が走ってる写真に温かい雰囲気がよく出てるよ。
こんな時でも食べ物の写真つきなのねぇ・・
この言葉重く受け止めました。
お話の続き楽しみにしています。
わたしも、子どもが走ってる写真、好き!
前から聞こうと思っていたんだけど、
「あかんべ山」っていう山があるの?
乳飲み子だった人が舞台に立つ人となるコンサート、他にはないでしょう。
たくさんの人の心に残るこんなにすごいことが終わってしまうとは本当に残念です。
30年というと、子が親になり、ひきついでいくんか。まさに人生そのものと歩んだ、生活に根を張った活動やったんね。
うまいとか、ヘタとかの問題じゃないね。
歌は暮らしとともにあるからね。
師匠は絶対に最後の息をひきとるときに、「いろいろあったがなぁ、俺の人生、おもろかったなぁ」と言って死ねるね。最高だね。
一言では語れない...一日では語りつくせない思いが伝わってきました。
30年の中にはドラマがいっぱいあったんでしょうね。
大きな財産ですよ。
気がついたら、食べ物が・・・・・・・
短くまとめるのが苦手・・・
第一回から六回までの、あの保育園のそばにあった雑木林を、地元で「あかんべ山」と呼んでいました。そこからです・・・