見学した白梅達の豪も富盛の獅子もここ八重瀬町にある。その民俗資料館は1度は訪ねたい場所だ。町立ながら、驚くほど立派で、見どころは満載だ。
白梅学徒の展示も充実。壕を見て、ここで資料を学ぶのは素敵だ。
そして何より「流産する沖縄自由民権運動」の展示が秀逸。沖縄自由民権運動の中心人物、謝花昇の出身地なのだ。(やがて薩摩からやってきた県知事・奈良原繁の迫害を受け、精神を患い失意のうちに亡くなる)
謝花の優秀さは、第一回県費留学生になり、学習院・帝国大と学び、郷土のために働くべく県庁に入るのだが・・・ここでも薩摩の迫害で無念のうちに死んでゆくのだ。
沖縄自由民権運動は、まだ僕は学習途中だが・・・語ると、長くなるので、ここでは割愛。
謝花の同志たる、沖縄移民の父、当山久三の紹介・・・・
我が、田中正蔵さんも紹介されている。
笠木さんの一声不平あり・・・♪田中正蔵と当山久三東京で巡り合った~~恋人のように抱きしめあって、先は長いの~♪が、ここにはあるのだ。
ここ八重瀬は、日本を代表する旧石器時代の人骨「港川人」の故郷でもあった。
2万2千年前・・・・・沖縄人のルーツ解明の重要な人骨の発掘場所が2年前公園になって、参観が楽になった(以前は資料館で鍵を借りて、民家の庭から門を開けて入らねばならなかった)。
今も調査研究が続いている。
小高い崖は石切り場だった。マチナト石灰岩(通称栗石)は柱や敷石、塀と建材に使用の石灰岩なのだが、その石切り場の岩の割れ目(フィッシャーと呼ぶ)から5体のかなり完全な人骨が発見されて、物語が動いたのだ。
この港川人について語ると、相当長くなるので、今回は割愛。
およそ標高20mのこのフィッシャーの高台が、津波の避難場所になって、公園が整備されたようだ。高台まで階段も整備され、避難はしやすくなっている。
マチナトはこの場所・・牧港のウチナグチだわな。
公園を後にし、運転手大城さんのサプライズで、鍾乳洞の上に生活道路という、ハナンダー(自然橋)にやってきた。
者ども!
ミッキーが「崩れないのかぁ?」と・・・
そこで、重量級3人が、掛け声合わせ橋の上で、飛んでみた・・の図。
橋は、びくともしなかったぜ。
民俗資料館では、新しい情報が得られた!!
先の、第一野戦病院壕から、5名の白梅学徒が、この分院に配属され、奉仕に従事する。
やがて、戦況悪化で。6月3日分院閉鎖・・24師団第一野戦病院も4日に閉鎖。この分院では500名ともいわれる、負傷兵が青酸カリで・そして銃剣の処置(銃殺)で壕にむくろは置き去りにされ、糸満へ撤退する。白梅は、逃げまどいながら、大きな集団は、今の慰霊碑が立つ辺りで、自害する。
その、分院が、ついにガイド付きで、見学(入壕)できるようになった。
これは・・・まず、僕は行かねばならないなぁ・・・・・交通の便は極めて悪いので・・わし、レンタカーデビューかな?2月かな・・・かな?
今年、最大の新情報を得た。
同じ場所だって、何度行っても、新しい情報や姿を見る。
苔が生え・蜘蛛の巣が張らない、いまだ生々しい、沖縄の戦跡だわな・・・・
29日の2m圏内接触者。
*丸木屋・・2名。
*とりせん・・多数。
*濃厚接触・・女房・海坊主。