おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

春  愁

2010-02-10 21:13:10 | Weblog

 句会で配られた去年の誕生日と今日の一句というNHK放送の二月一日から一ヶ月間の一覧表を見ている。
 
内容は 「家々や菜の花いろの燈をともし」木下夕爾から始まって二十八日「千年の昔のごとく耕せり」富安風生、と名句ばかりで味わい深い。
 誕生月が三月の私の母は平成二十一年二月に逝った。その生前に思いを馳せると、六人の子供をはじめ(ある意味子供も花である)沢山の花を咲かせた人であった。
 家の裏の花壇には、戦争中と言えどもいろいろな花が咲いていたが葵とかダリアばかりを思い出すのは終戦頃のことであろうか。
 父は庭師を入れる庭には草花を植える事は許さず、しんぱくや、松、槙、柏、紅葉などが枝ぶりよく植えられ、、花物は、燈籠の蔭に山吹と白侘び助、庭石の間と蹲に沿って石蕗の黄色だけが添えられていた。
 折角の二月に花をつける梅の木の三本も母屋から遠く三百メートル程離れた畑に見事な花を咲かせていた。
 その下には父の丹精をこめた、グラジオラスや芍薬が、妻への愛情表現なのか群がるように咲き、この花畑には母も百日草や、金盞花、矢車草や菊など、四季とりどりに植えていた。    五十歳前に、ひと回りも歳の違う夫に先立たれた母の晩年に、「どうしてそんなに花を作るの」と聞いたら、「お墓の供華を絶やさぬように」と嬉しそうに言っていた。その追憶の中にはあの頃の花々が去来していたのであろう。呆けてきてから車の中で誰に言うともなく突然「あんまり来たくもなかったけれど、此処へ嫁ぎまして」と無表情に語り、私をのけぞらせた。十年間に七つも葬式を出したと澄まして言っていたのに、母も澄ました顔で逝ってしまった。すべてに几帳面な母であった。
 
花に例えたら何の花が似合うであろうか。水仙やフリージヤといった感じではなく、そうだ、蔵の前に大きく枝を広げ見事な花をつけていた木蓮、学校帰りの私を迎えてくれたあの木蓮だ。いつも見慣れた木蓮の柄の大島の着物を着て笑顔をみせていた若い日の母の面影は木蓮がふさわしい。
 手にした印刷物
の中に「声あげむばかりに揺れて白木蓮」西嶋あさ子というのを見つけてその句から目を離せないでいる。

  

   俳句 春愁や人形の目のぱっちりと
      
建国の日を諾うや平成子

コメント
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