僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

あれから3年

2014年03月14日 | ニュース・時事

真夜中の1時半頃に目が覚めた。目を閉じてもしばらく寝付けない。そしてやっとウトウトしかけた時、ガタガタっと部屋が揺れた。あ、地震だ…と思って身構えていたら、しばらくして、止まった。


早朝に起きてPCを立ち上げると、Yahoo!の画面に地震速報が出ていた。午前2時6分、愛媛県を中心に最大震度5の地震があり、津波の心配なし…とあった。地震は西日本の広い範囲に及んでおり、僕が住んでいる大阪府藤井寺市は震度3であった。


震度3でもその一瞬、恐怖に襲われる。改めて東日本大震災がどれほどのものだったろうか…と思うと戦慄が走る。


3日前の3月11日…震災から3年が経った日、各地で追悼の行事が行われ、新聞・テレビもほとんどそれに関連する報道で埋め尽くされていた。テレビ番組も、当日は特に午後はどのチャンネルも震災・津波関連の特集を組んでいた。


いろんな番組を見た中で、特に印象が強かったのは、11日ではなく、その前夜の午後9時から放送されたTVSテレビの「テレビ未来遺産・震災直後…生死を分ける72時間になすべきこと」という番組だった。映像を見ているだけでも息を呑み、体が固くなった。数々の救助の場面が次々と映し出されていた。


中でも目を見張ったのは、気仙沼市の公民館に避難した450名の人たちの救出劇だった。押し寄せる津波に住民たちは市の中央公民館3階に逃げたが、孤立状態となった。その中に、一景島保育所の子どもたち71人もいた。恐怖の中、救助の来る気配もなく、むろん周囲は水没しているので歩いて脱出は不可能だ。絶体絶命のピンチの中、保育所の園長先生が家族に「火の海 ダメかも がんばる」とメールを打つ。それがロンドンに住む息子さんに届き、驚いた息子さんがツィッターにメッセージを流す。「…空からの救助が可能であれば、子供達だけでも助けてあげられませんでしょうか」。それを東京の鈴木さんという人が読み、「文章がしっかりしている。これはデマでなく本物だ」。テレビで気仙沼の火災も見ていたので間違いないと確信し、東京都の副知事にこの情報を送り、そこから、たまたま気仙沼に向かっていた東京消防庁の救助部隊に連絡され、ヘリが中央公民館に向かった。そして2日間をかけて450人が高台にある小学校へと無事避難させられた。高台の小学校で、ヘリから降りた子供たちが校庭で待っていた親たちと再会する場面では、涙があふれて止まらなかった。


こういう「奇跡の救出劇」が、この時、数多くあったのだろうと思う。


東日本大震災での死者、行方不明者、関連死者は2万人を超す。さらに、約26万7千人の人々が今もなお、避難生活を強いられているという。亡くなられた方々の御冥福をお祈りすることと併せて、震災を乗り越え、今も避難所で懸命に生活しておられる方々が26万人以上おられるということを、もう一度頭の中に焼き付けておかなければ…という思いを一層強くした。


マスコミも3月11日だけ集中的に特集を流すのではなく、もっと日常的に報じ続ける姿勢があってもいいのではないか。被災地の人たちは「私たちの悲しみは3月11日だけではありません。毎日、ずっとです」とおっしゃっていた。


さらに「復興」とは名ばかりで遅々として進まず、その予算を何に使っているのかわからないような現状を厳しく批判し、政府の尻をひっぱたくのも、マスコミの重要な役割ではないかと思うのだ。…言うまでもないことですけど。

 

 

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