僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

交友賛歌

2014年03月27日 | ランニング

月曜日はdoiron(ドイロン)クンから、また西高野街道でも歩きませんか、ついてはその作戦会議を開きましょう…ということでお誘いを受け、1年ぶりに会って大いに語り合った。


そして昨日は、doironクンと同じランニング仲間であるK島クンと会って飲んだ。これもまた、doironクン同様、1年ぶりの再会である。


これまでも書いたけれど、あの250キロを何度も走ったdoironクンもすごいけれど、K島クンのほうも、僕らの友達の中ではマラソンナンバーワンの実力者である。昔、まだランニングがブームでなかった頃、僕が篠山マラソンやニューヨークマラソンに出て、4時間台のタイムで完走したことが勤め先の市役所で話題になった。常々マラソンを走りたいと思っていた人たちが僕のところへ来て「教えを請う」みたいな形でさまざまな質問をされたことがあった。僕は大した記録でもないし、そこはまぁ、適当に返事したり、アドバイスめいたものをしていたのだけれど、「じゃぁ、一緒にレースに出よう」ということになって5キロや10キロを走り始めると、そういう人達はみるみる記録を伸ばし、僕は置いていかれるばかりだった。その中でもケタ外れのスピードを持っていたのが4歳半年下のK島クンだった。


1人やり出すとまた1人、また1人とマラソンを目ざす人間が輩出してきて、いつのまにか職場で「ランナーズ」という組織ができ、年長で海外マラソンの経験もあった僕が「会長」ということになった。それ以来、勤めている役所の中では、僕は「ランナー」というかなり固定したイメージを職員の人たちに植え付けたようであった。現在、退職しても、たまに役所に用事で顔を出すと「走ってはりますか?」というのが、僕に対する挨拶代わりの言葉になっている。


ところで、K島クンは、市民ランナーとしては、ダントツの実力の持ち主であった。別大マラソンに出場して2時間30分台の記録を出したこともある。当時、別大マラソンといえばエリートマラソンで、出場資格も厳しかった。そこに出るだけでもすごかったのに、さらに2時間30分台という、プロの実業団クラスのタイムで完走したのである。僕の周辺でこれほどのタイムを出した人間は他にいない。僕などいくら頑張っても3時間半を切るのが精一杯だったので、これには驚いた。


そのあと、トライアスロンに進出したK島クンは、世界的にも有名なハワイや琵琶湖の国際大会に出場し、驚くほどの好成績をおさめている。うちの市役所のみならず、南大阪一帯でも「K島」の名前は響き渡り、僕など大和川堤防を走っていると、顔だけ知っている人から「K島さんはどうしていますか?」と今でも聞かれる。彼は地域でも「有名選手」だったのだ。


元々大阪府大(作家・東野圭吾の先輩に当たる)で、山岳部に入っていたK島クンだったから、僕を山歩きにも連れて行ってくれた。六甲山脈を須磨から宝塚まで、山をいくつも超える恐怖の「六甲全山縦走」にも誘われたし、彼の車に乗り、白山へのゼロ泊弾丸登山も誘ってもらった。マラソンでは、1992年、サロマ湖100キロマラソンにdoironクンも含めて遠征をして、K島はレース後のテレビにも映ったほど先頭グループに近いところを走って好成績をおさめ、一方僕は、当時、制限時間が12時間半だったところ、12時間27分のギリギリのタイムでヘトヘトになりながらゴールした。ゴールから少し手前のところで、K島は僕に抱きついて「よかったよかった~」と、涙ながらに僕の頭をなでてくれた(よほど心配してくれていたのだろう)。4歳半年下の男に頭をなでてもらったのは、わが人生でこれが最初で最後である(笑)。その時、僕も涙が出た。


僕は後年、サロマ湖以外にも、四万十川や赤穂の100キロマラソンにも出場したが、その練習には必ずK島クンに伴走をお願いした。70~80キロを一緒に走ってくれる仲間なんて、そうザラにいない。その点、〇島クンがあまり練習をしていない時期でも、快く僕のパートナーを勤めてくれ、一緒に朝早くから夕方まで、にこやかに長い長い距離を付き合ってくれるのであった。


だから、K島クンとは、マラソンでも一緒にいろんなところへ行っているし、普段も長居公園などで5キロのタイムトライアルをして刺激をもらっていた。つまり、よき「師匠」であった。昨日、ビールを飲みながら、話がそういうところに及ぶと、懐かしいそんな話がズルズルズルと出てきて、話の尽きなくなる2人だった。そういう話をしているときが、一番幸せなんですよね~


さて、言い遅れたが、そのK島クンは、僕が勤めていた役所で、今は環境関係の部長職なのであるが、今月で定年退職を迎える。…ということは、あと仕事に出るのは…明日と明後日、そして土日をはさみ月曜日の3日間だけである。


「そうですねん。あと3日ですわ…」
K島クンは目を細め、感慨深そうに言った。
胸の中を去来するものは、いろいろあるのだろう。


5年前、僕が退職する際に、「走る会」で送別会をしてもらい、リュックとウェストバッグを記念品にいただいた。その段取りをしてくれたのがK島クンである。あれから5年経ち、退職者が相次ぎ、走る会も現職で残っている人間のほうが少なくなり、誰も送別会の世話をする人間がいなくなった。おととい、doironクンに「K島も退職やで」と言うと「大丈夫、私がいてますやん」と心強く言ってくれた。段取りをしてくれるそうだ。さすがに頼りになるdoironクンである。


みんなで退職祝をするのも大いに良い。僕は僕で、ランニングや山登りで、あまりにも大きな影響を受け、とてつもない経験までさせてもらったK島クンに対しては、ささやかだけれど、個人的にも30数年間勤めてきた労をねぎらいたかった。で、昨日は〇島クンを誘って、形ばかりだけれど、僕の気持として、〇島クンの退職をお祝いの真似事をさせてもらったわけである。


「体調は大丈夫ですか? 無理せんといてくださいね」


別れ際、K島クンはそう言って笑顔で手を降り、駅に向かった。


それを見送りながら、これまでいろんなことに誘って僕に無理させたのはお前やろ~と、僕はつぶやいた。(あはは~。冗談です。彼には感謝しています)。一昨日のdoironクンといい、このK島クンといい、僕は本当に良い友人に恵まれたなぁと、帰り道に、しみじみ思った。


最近、人と会うのが億劫に感じ始めていたので、この3日間で最も親しい2人と会って心ゆくまで話せたことは、僕に大きなプラス思考をもたらしてくれた。


先日ちひろさんがくださったコメントに、
「お友達と会う、というのは気持ちがとても浮き立つことですね」
という言葉がありました。本当にここ数日で、すっかり気持が浮き立ちました。

 

 

 

 

コメント (2)
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