僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

阪神大震災の1週間

2010年01月19日 | 思い出すこと

一昨日の17日、阪神・淡路大震災から15年を迎えた。

あの日。
平成7年1月17日の火曜日。
午前5時46分に、震災は発生した。

15日(日)が華やかな成人の日で、16日(月)が振り替え休日だった。
まだ成人の日が1月15日と固定され、「振り替え休日」があった頃だ。
だから17日は、3連休が終わり「さあ、また仕事か」という日だった。

僕の住む大阪府中南部地方でも、かなり揺れた。

午前5時台だから、まだ寝ていた。
ガタガタガタっと、雨戸が立てた異様な音で目が覚めた。
かつて経験したことのないような激しい地震だった。
咄嗟のことなので、どうしていいかわかなかった。
ひたすら布団の中で身を硬くし、「早く止まってくれ」と念じていた。                               

二階の台所で、ガチャンガチャンと食器などが床に落ちている音がする。

ようやく揺れが収まり、急いでNHKテレビをつけた。
臨時ニュースで、キャスターが、早くもこの地震を報じていた。
もちろん、地震の詳しく正確な情報は、この時点ではまだわからない。

真っ暗な神戸の街(だったと思うが…)のナマ映像が映し出された。
拍子抜けするほど、平穏である。

現地にいた記者は、
「外に出てみましたが、今のところ大きな被害は出ていないようです」
音声だけだったが、そう伝えていた。

僕は、そこでテレビを消した。

「あぁ、大したことなかったんや。しかし、えらい揺れたなぁ」

そして、僕はそのまま起きて、朝のジョギングに出た。
そのあと、いつものように自転車で、勤務先の市役所へ行った。

その間はむろんのこと、仕事中にもテレビは見ていない。

だから、まさか、後に6,000人を超える死者を出す大災害であったとは…
そんなこと、夢にも思わなかった。

おまけにその日の夜は、12月末に辞めた市の助役の送別会があった。
仕事を終えると、そのまま大阪市内のホテルに行ってそれに参加した。

帰宅したのは夜遅くである。
だから昼はおろか、夕方から夜にかけてのニュースも全然見ていなかった。
夕刊も、帰宅するまで読んでいなかった。

妻が、「すごい被害が出ているみたいよ」と教えてくれて初めて知った。

平成7年1月17日から同25日までの新聞を、今もそのまま残している。
時々、紙袋に入れたそれらの新聞を引っ張り出して、読む。
そのたびに、暗澹たる気持ちになり、身震いがする。

15年を迎えた一昨日も、僕は変色しかけているそれらの新聞を繰ってみた。

地震があったその日の朝日新聞の夕刊で報じられた死者は333人であった。
それが翌日の朝刊では、「死者・不明1017人」となった。
その後、新聞が配達されるたびに、死者の数が増えて行く恐怖を味わった。

当時の新聞を日を追って読んでいくと、それらの記憶が鮮明によみがえる。

 

 

  
  大震災の第一報となった1月17日(震災当日)の夕刊。
  中ほどに「68年ぶり震度6」という見出しが出た。
  しかし…、数日後になって震度7と判定された。
  1面の写真は、地震で脱線した阪神電車と燃える住宅。

  

 
 同じ17日夕刊の社会面。
 高速道路が途中で折れて、バスが落ちかけている写真などもあった。
 こんなことが、近隣地で起こったことに大きな衝撃を受けた。


 

  
  翌18日(水)の朝刊。
  地震発生から半日が過ぎても燃え続ける神戸市街の写真だ。
  社会面では、体育館などに避難する人たちの様子が報じられている。
  「とにかく食料、水」と市民の悲痛な叫びも…。



  
  同18日の夕刊。
  激しい地震で家が倒れ、焼け野原になった神戸市内の写真。
  新聞の見出しを見るたびに、死者の数が増えていく。

  

  
  1月19日(木)の朝刊。災害の全貌が、徐々に明らかになっていく。
  が、混乱は、まだまだ続く。
  写真は、活断層が動き、地表に生じた亀裂が一直線に延びたさま。



 
 1月19日の夕刊。
 19日になっても、三宮中心街の高層ビルで火災が発生した。
 (写真は、煙に包まれる高層ビル)
 救助に当たった自衛隊や機動隊は、生存可能者を優先した。
 生き埋めになった遺体の捜索・搬出まで手が回らないので、
 それらを、地元住民の手で行なった地域も少なくなかったという。

 

  
  1月20日(金)の朝刊。
  写真は、倒壊したビルの中から57時間ぶりに救出された子ども。
  この9歳の小学生男児は、救出された瞬間「まぶしい」とつぶやいた。
  新幹線の新大阪~京都間は、この日から運転が再開された。
  

 

  
  1月21日(土)の朝刊。
  当初、震度6と発表されていたが、気象庁の詳しい調べで、
  神戸の三宮地区と淡路島北部は震度7だったと判定された。
  昭和24年に震度7の震度階が設けられて以来、実際に
  震度7が確認されたのは、観測史上初めてだという。
  

 

  
  1月24日(火)朝刊。震災から1週間が経った。
  死者はついに5,000人を超えたと報じられた。

 

一昨日、昨日と、新聞・テレビ等で、阪神大震災の特集が組まれていた。
震災で家族を亡くした人たちもインタビューに応じていた。
その人たちが共通して口にした言葉は、
「この震災を、決して風化させてはならないと思います」
という言葉であった。

それを聞いて、僕は保存していた当時の新聞を引っ張り出し、
それを自分1人で読むだけではなく、新聞の写真を撮り、
このブログに載せよう…と思い立ったのである。

この震災で命を失われた方々の数は、最終的には6434人にまでのぼった。

改めて、心より御冥福をお祈り致します。

 

 

 

 

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2 コメント

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遺族の方-- (アナザービートル)
2010-01-24 21:24:38
遺族の方の涙は永遠に乾かないでしょうね。
 それと共に我々の涙も永遠に乾かないと思います。
 それにしてもよく新聞を残していましたね。
小説を書く場合など本当に参考になる資料ですね。
 でも見るたびに胸が痛みます。まだまだ世界中、胸の痛むことだらけですよね。
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悲惨の一言に尽きますね (アナザービートルさんへ)
2010-01-25 08:06:19
昭和57年にわが家の近くで大水害があったときの新聞も残していましたが、間違って捨てたのか、行方不明です。
でも、この大震災の記事は、永遠に保存して、これからも毎年、その日が近づいたら、読み返すつもりです。
読むたびに、アナザービートルさんと同じように、胸が痛みます。
先日のハイチの地震も、悲惨でしたね。
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