一昨日の17日、阪神・淡路大震災から15年を迎えた。
あの日。
平成7年1月17日の火曜日。
午前5時46分に、震災は発生した。
15日(日)が華やかな成人の日で、16日(月)が振り替え休日だった。
まだ成人の日が1月15日と固定され、「振り替え休日」があった頃だ。
だから17日は、3連休が終わり「さあ、また仕事か」という日だった。
僕の住む大阪府中南部地方でも、かなり揺れた。
午前5時台だから、まだ寝ていた。
ガタガタガタっと、雨戸が立てた異様な音で目が覚めた。
かつて経験したことのないような激しい地震だった。
咄嗟のことなので、どうしていいかわかなかった。
ひたすら布団の中で身を硬くし、「早く止まってくれ」と念じていた。
二階の台所で、ガチャンガチャンと食器などが床に落ちている音がする。
ようやく揺れが収まり、急いでNHKテレビをつけた。
臨時ニュースで、キャスターが、早くもこの地震を報じていた。
もちろん、地震の詳しく正確な情報は、この時点ではまだわからない。
真っ暗な神戸の街(だったと思うが…)のナマ映像が映し出された。
拍子抜けするほど、平穏である。
現地にいた記者は、
「外に出てみましたが、今のところ大きな被害は出ていないようです」
音声だけだったが、そう伝えていた。
僕は、そこでテレビを消した。
「あぁ、大したことなかったんや。しかし、えらい揺れたなぁ」
そして、僕はそのまま起きて、朝のジョギングに出た。
そのあと、いつものように自転車で、勤務先の市役所へ行った。
その間はむろんのこと、仕事中にもテレビは見ていない。
だから、まさか、後に6,000人を超える死者を出す大災害であったとは…
そんなこと、夢にも思わなかった。
おまけにその日の夜は、12月末に辞めた市の助役の送別会があった。
仕事を終えると、そのまま大阪市内のホテルに行ってそれに参加した。
帰宅したのは夜遅くである。
だから昼はおろか、夕方から夜にかけてのニュースも全然見ていなかった。
夕刊も、帰宅するまで読んでいなかった。
妻が、「すごい被害が出ているみたいよ」と教えてくれて初めて知った。
平成7年1月17日から同25日までの新聞を、今もそのまま残している。
時々、紙袋に入れたそれらの新聞を引っ張り出して、読む。
そのたびに、暗澹たる気持ちになり、身震いがする。
15年を迎えた一昨日も、僕は変色しかけているそれらの新聞を繰ってみた。
地震があったその日の朝日新聞の夕刊で報じられた死者は333人であった。
それが翌日の朝刊では、「死者・不明1017人」となった。
その後、新聞が配達されるたびに、死者の数が増えて行く恐怖を味わった。
当時の新聞を日を追って読んでいくと、それらの記憶が鮮明によみがえる。
大震災の第一報となった1月17日(震災当日)の夕刊。
中ほどに「68年ぶり震度6」という見出しが出た。
しかし…、数日後になって震度7と判定された。
1面の写真は、地震で脱線した阪神電車と燃える住宅。
同じ17日夕刊の社会面。
高速道路が途中で折れて、バスが落ちかけている写真などもあった。
こんなことが、近隣地で起こったことに大きな衝撃を受けた。
翌18日(水)の朝刊。
地震発生から半日が過ぎても燃え続ける神戸市街の写真だ。
社会面では、体育館などに避難する人たちの様子が報じられている。
「とにかく食料、水」と市民の悲痛な叫びも…。
同18日の夕刊。
激しい地震で家が倒れ、焼け野原になった神戸市内の写真。
新聞の見出しを見るたびに、死者の数が増えていく。
1月19日(木)の朝刊。災害の全貌が、徐々に明らかになっていく。
が、混乱は、まだまだ続く。
写真は、活断層が動き、地表に生じた亀裂が一直線に延びたさま。
1月19日の夕刊。
19日になっても、三宮中心街の高層ビルで火災が発生した。
(写真は、煙に包まれる高層ビル)
救助に当たった自衛隊や機動隊は、生存可能者を優先した。
生き埋めになった遺体の捜索・搬出まで手が回らないので、
それらを、地元住民の手で行なった地域も少なくなかったという。
1月20日(金)の朝刊。
写真は、倒壊したビルの中から57時間ぶりに救出された子ども。
この9歳の小学生男児は、救出された瞬間「まぶしい」とつぶやいた。
新幹線の新大阪~京都間は、この日から運転が再開された。
1月21日(土)の朝刊。
当初、震度6と発表されていたが、気象庁の詳しい調べで、
神戸の三宮地区と淡路島北部は震度7だったと判定された。
昭和24年に震度7の震度階が設けられて以来、実際に
震度7が確認されたのは、観測史上初めてだという。
1月24日(火)朝刊。震災から1週間が経った。
死者はついに5,000人を超えたと報じられた。
一昨日、昨日と、新聞・テレビ等で、阪神大震災の特集が組まれていた。
震災で家族を亡くした人たちもインタビューに応じていた。
その人たちが共通して口にした言葉は、
「この震災を、決して風化させてはならないと思います」
という言葉であった。
それを聞いて、僕は保存していた当時の新聞を引っ張り出し、
それを自分1人で読むだけではなく、新聞の写真を撮り、
このブログに載せよう…と思い立ったのである。
この震災で命を失われた方々の数は、最終的には6434人にまでのぼった。
改めて、心より御冥福をお祈り致します。
それと共に我々の涙も永遠に乾かないと思います。
それにしてもよく新聞を残していましたね。
小説を書く場合など本当に参考になる資料ですね。
でも見るたびに胸が痛みます。まだまだ世界中、胸の痛むことだらけですよね。
でも、この大震災の記事は、永遠に保存して、これからも毎年、その日が近づいたら、読み返すつもりです。
読むたびに、アナザービートルさんと同じように、胸が痛みます。
先日のハイチの地震も、悲惨でしたね。