めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

いつも心が不安な日本人

2017-09-11 16:18:42 | 日本人

人は、其々、年齢に依り生きている環境により、思いが違って来ます。
5歳の時の思い、15歳の時の思い、30歳の時の思い、60歳の時の思い、
同じ人間でありながら、これ程にも世界が変わって見えるのかと、
短い一生とは言え、感慨深げに振り返ってしまいます。

十代の頃は、自分の一生の事等、殆ど考えることも無く、現実に起こる

様々な現象に敏感に反応し、一喜一憂が、心の叫びであったのが思い出されます。
その時々に身をゆだねるものの、自立していない子供の自分に不安と恐れを抱き、
将来の姿を想像する事も出来ませんでした。

しかし、月日はあっと言う間に過ぎて行くものです。

社会的に大人と言われる世代と成り、自分自身だけでなく、家族も養う様になると
少なからず、生きる自信が生れ、身の回りの人達をも含めて、如何に幸せに成るかを
考える様にも成りました。

必至に働いた全盛期を過ぎると、いよいよ、人生の終盤に向かって行きます。

人として、自分なりに成し遂げて来た事はあるにせよ、あれ程にも頑張っていた
若き時代が遠い過去の様に思われ、確実に、新たなる時代を生きている事を痛感します。

一番の問題は、次第に、自分を必要とする人たちが減って行く事です。

仕事として、友人関係として、幅広く人脈を増したと言え、実際の交流は次第に減り
自分が中心的存在ではなく、今働き盛りの人達を見守る立場である事を知らされます。
若い頃は、いかなる社会の場で自分の存在価値を高めて行けるかの不安が強く、
自分自身の可能性と社会の必要性との間に、混沌とした不安を感じたものです。

所が、歳を重ね、人生の後半ともなると、若い頃に身に付けた多くのスキルの必要性が

社会的に求められず、自分自身を生かすステージを見つけられなくなる寂しさに
年齢以上の寂しさを覚えるのです。
人は、幾つになっても、社会に対する自己の必要性を考えるものです。
例え、仕事をリタイアしたとしても、新しい環境で、如何に自分の存在価値を認められ
生き甲斐を感じられるかが、末期への自信と成るのです。

いずれ、来るべく日が訪れるのですが、生きている限り、生きている意味が欲しいのです。

この事は、ただ、動物的に食べていければ良いというものでなく、一人の人間として
誰かの役に立っていると言う自負が求められるのです。

今や、日本社会は高齢化し、日本中に働くことが出来なくなった高齢者が溢れています。

出生率が低い中、確実に増えて行く高齢者の生活を如何に支えて行くかが、日本が抱える
未来に向かっての一番の問題とも言えます。
少ない国家予算の中から、毎年増える高齢者を生かすための予算を生み出す事は、
如何なる政権が日本のリーダーとなろうとも、至難の技と言わざるを得ません。

しかしながら、国家予算が増えれば、多くの高齢者を養えるとする考えは、

単に、動けなくなった老犬に餌を与える様なもので、いくら福祉政策を行い
年金制度を整え、生活を豊かにしようとも、本当に高齢者たちは幸せとはならないのです。
所得が低いから、高齢者たちが苦しい生活をしていると考えるリーダー達は多いのですが、
毎日、幸せと感じていない高齢者の中には、政府の援助無くしても、十分に食べて行ける
方々も多く、単に、経済的に豊かにしても、高齢者は幸せな余生を過ごせないのです。

日本の高齢者の心の中に在る深い憂いを知らなくて、ただ、食べられる生活を提供しても

余生を幸せに過ごす事は出来ないのです。
この事は、一見高齢者の問題の様に見えて、実際は、十代の頃から、就職して
働き盛りと成った時も、共通の思いとしてあるのです。

若い頃の悩み、社会に対する不安、就職して仕事に精を出している時の不安、

そして、高齢となって余生を送っている時の不安は、同じなのです。
それは、自分の心を支える守ってくれる人々の存在にあるのです。

家族であり、友であり、仕事仲間であり、人が社会生活を営む上で、

自分の考えや行動を、しっかりと見守り支えてくれる人が必要なのです。
如何なる世代に於いても、この心の存在こそが、人が生きて行く為に、最も必要であり
育てなければならないものなのです。

しかし、現代の日本社会は、人を蹴落としてでも社会的地位を得る事、人より便利で

豊かな生活をする事を目的とする社会です。
人々の生活は、消費経済社会に従う様に作られているのです。
生きる事の価値観を、自分の心の満足に置くのではなく、人々が求める、外見的に
豊かな生活に求める事に依り、多くの日本人の心が苦しんでいるのです。

確かに、この経済社会で多くの収入を得ることが出来れば、自分の欲するものは

何でも手に入ります。自分が欲しいものは、人の欲しい物であり、誰よりも多くの
高価で豊かな物を手に入れれば、自分の価値が上がったかの様に思えてしまいます。
しかし、その価値を、周囲の人々は、本人の価値とはせず、持ち物や地位、財産で
判断しがちである事が問題です。

争いに勝ち、人の上に立ったと思えても、人々は、自分自身の価値を認めているのでなく

自分が得た社会的な価値を認めているのです。
多くの身の回りに集まっている人達が、自分自身の存在価値を認めているのではなく、
自分が成し遂げた物、勝ち得たものを称えていると知った時、豊かな生活をしていた
と思っていた気持ちが一気に崩れ去り、自分が一人ぼっちであることを知るのです。

人の上に立っても、周囲に集まる人は、自分の持っている権力や地位、財産を求め

自分は、誰であっても良いと知った時、人生の末路の様な寂しさを知るのです。
多くの高齢者にとって、訪れる不安は、リタイアして、経済的不安を感じると言うより
自分の価値を認めてくれる社会からの離脱です。

もう、自分は必要とされていないと言う、心の支えが崩れ去るのです。

年金があり、退職金があり、悠々自適な方もいるでしょう。
しかし、それでも、高齢者の心は、満たされないのです。
勇退した後、しばらくは、旅行に、趣味にと、これまでできなかった事に十分な時間で
楽しい日々を過ごすことも出来るでしょう。

しかし、それは、自分の蓄えた資産によって、自分自身を慰めているに過ぎません。

どんなに楽しい事をしても、3年もすれば飽きてしまうのが普通です。
すると、今度は、豊かな資産が自分の心を満たさない事を感じると、急に、活動が
衰え始め、行動範囲も狭くなり、高齢者特有のふさぎ込んだ毎日が増えてきます。
何も新しい事が生れない、心が躍動しない単調な毎日が続きます。

これは、余生に向かって、当たり前の状況と考える方々も多いのですが、

高齢者の幸せとして考えると、誰もが、次第に不幸せになって行くと言えるのです。
幸せとは、周囲の他人から、存在価値を知らされ、自分が生きる事で、誰かの
生きる事を助けていると感じられる時です。
つまり、人との関わり合いにより、生きている事を実感できる人生が必要なのです。

争って、人よりも多くの資産を持つことでも、国や誰かに、生活を助けてもらう事

ではないのです。
自分が生きて行く意味と価値を感じられるための支援が必要であり、経済的に豊かな
生活が必要なのです。
そして、その意味と価値を教えてくれるのが、家族であり、友であるのです。
高齢者にとっても、若者にとっても、この深い人間関係を持てることが、
人生を豊かにし、不安なく未来に進むことが出来るのです。

日本社会は、例え家族であっても、孤立し、分立する要素が強くなっています。

経済的に豊かでありさえすれば、何でも手に入るネット社会に於いては、
友や家族が居なくても生活できる社会と成っているのです。
その為、益々、他人に対する判断が、外見的な価値でしか見いだせず、その結果
自分自身も外見的な要素を高めることしか出来ず、心が病んだり孤立したりする
日本人が増えているのです。

利害関係のみでの付き合いは有っても、心から認め合う相手が見つからない人が多く

人間の心を育てる人との関わり合いが持てない社会と成っているのです。
経済性ばかりを求めると、人との関わり合いも、利害関係が中心となって、
いつも疑心暗鬼の人を信じられない人生と成ってしまうのです。

若者の不安、社会人の不安、そして、リタイアした高齢者の不安の原点は、

人間関係の疎通が損なわれた結果ともいえるのです。
より高度な文明社会となる為には、それ以上の人間的な深い繋がりのある社会を
築きあげて行く事が大切と言えるのです。

 

 

 

 



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