ひとつの教科書を考えている。
その試作として、野口三千三先生が話された「私の身体論」の話を聞きながら、手元のパソコンにあるデジタル化した本や写真資料を中心に、Key Note を作っている。今はまだ話に合わせた貼付け作業のような感じもするが、やってみると話の内容の理解が、ただ聞くだけよりも奥行きが出るように感じられるようになる。つまり立体感とでもいうのだろうか。
第一回目の「疲れ知らず」は、『原初生命体としての人間』、第一章を理解するのに、もっともふさわしい内容である。
第二回目の「構えのない構え」は、「人間が立つこと」について、実体験を伴った話で、野口体操の基本をおさえる内容である。
最終回の「地球との対話」は、まだ手つかずだけれど、後の「石の世界」へと導かれる予感が漂っている。
いずれにしても文字の世界に、声と映像が加わることで、今までなんとなく読み過ごしていた言葉に命が宿るような気がしてならない。
楽譜に置き換えられ、作曲された曲が、実際に演奏されることではじめて音楽として生きることに通じるものを感じている。
思えば、はじめて『原初生命体としての人間』を手に取って読みはじめた時、何が書いてあるのやら理解できず、まったく歯が立たなかった記憶が鮮明に残っている。
放送記録を繰り返し聞きながら、話にあわせて作業をすすめる。引き算ではなく、足し算をしていく作業をもう少し続けてみたいと思っている。
たとえば聞くことに特化したラジオ放送記録を聞いてもらいながら、Key note 静止画面を見てもらう。動画映像を見たり聞いたりするのとは、ひと味違った理解を引き出せるようだ。
アーカイブ野口体操の一つの伝え方として可能性があるのかもしれない。
その試作として、野口三千三先生が話された「私の身体論」の話を聞きながら、手元のパソコンにあるデジタル化した本や写真資料を中心に、Key Note を作っている。今はまだ話に合わせた貼付け作業のような感じもするが、やってみると話の内容の理解が、ただ聞くだけよりも奥行きが出るように感じられるようになる。つまり立体感とでもいうのだろうか。
第一回目の「疲れ知らず」は、『原初生命体としての人間』、第一章を理解するのに、もっともふさわしい内容である。
第二回目の「構えのない構え」は、「人間が立つこと」について、実体験を伴った話で、野口体操の基本をおさえる内容である。
最終回の「地球との対話」は、まだ手つかずだけれど、後の「石の世界」へと導かれる予感が漂っている。
いずれにしても文字の世界に、声と映像が加わることで、今までなんとなく読み過ごしていた言葉に命が宿るような気がしてならない。
楽譜に置き換えられ、作曲された曲が、実際に演奏されることではじめて音楽として生きることに通じるものを感じている。
思えば、はじめて『原初生命体としての人間』を手に取って読みはじめた時、何が書いてあるのやら理解できず、まったく歯が立たなかった記憶が鮮明に残っている。
放送記録を繰り返し聞きながら、話にあわせて作業をすすめる。引き算ではなく、足し算をしていく作業をもう少し続けてみたいと思っている。
たとえば聞くことに特化したラジオ放送記録を聞いてもらいながら、Key note 静止画面を見てもらう。動画映像を見たり聞いたりするのとは、ひと味違った理解を引き出せるようだ。
アーカイブ野口体操の一つの伝え方として可能性があるのかもしれない。
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