昨晩、駿河台の明治大学「アカデミーコモン」アカデミーホールで開催された、岩波書店創業百年記念シンポジウム『知の現在と未来「大学、出版、知の未来」』の講演とシンポジウムを聞きに出かけた。
コーディネーターをつとめられた明大教授・管啓次郎さんと近藤早利さんが同級生ということもあって、講座参加の手配をしてくださってあった。
基調講演は、千葉大学教授・広井良典さん。以前、医学書院『看護学雑誌』「越境するケアー交話」で、いちどだけご一緒させていただいたことがあった。
講演では、『人口減少社会という希望』の復習をさせてもらえた。春に読んだ時にはなぜ「鎮守の森」なのかが理解できなかったが、話を伺ううちにローカルが持つ深い意味が多少なりとも解る気がしてきた。
パネルディカッションで、作家の高橋源一郎さんの話は、現実のエピソードを生き生きとした描写を交えて、「弱さとは何か」、そして「希望のもてる場を求める想像力・創造力について」等々、作家ならでは柔らかな語り口で、硬くなりがちな雰囲気に風穴をあけてくれた。
メディア論が専門の長谷川一さんは、岩浪書店が多くの日本人に向けた啓蒙書となる「文庫」や「新書」といった形式をつくりだし、他社も追随してきたことによる「日本の知の有り様の変遷」を語っていたのが印象に残った。この問題だけでも、日本人の民意の質を問う大きなテーマであった。
こうして2時間半、大学、出版、現代の知の代表として専門家の話を聞くことができたが、まとめ役の管さんとしては、なかなかご苦労があったことと推察している。声も表現力も場の雰囲気を盛り上げる力も素晴らしい。テンションは相当に高く、シーンをつくりだし、ステージを用意するための仕掛けをなさっていらした。
その姿に我が師・野口三千三を彷彿としたが、野口を超えるラジカルな発想と言説で「大学の消滅」への危機感を随所に滲ませていおられた。
ここからは、勝手な物言いをお許しいただこう。
まず一点。
「人間を育てるには、私塾、寺子屋しかない!」
もう一点は、基調講演を管さんがなさって、人の価値がクロスする「ヘテロトピア(空間)とヘテロクロニア(時間)」をキーワード・共通言語として、「大学・出版・知の未来」について討論されるのも、もう一つの在り方だったかもしれない、といささかの残念さを感じたこともあった。
この二つのことばについて管さんの話を伺ってみたいと思っている。
今朝になって、とりあえずの行為として二つの言葉をWeb上で検索した。
「ヘテロトピア」は、非現実的な空間である「ユートピア」に対立するもの。『権力による服従とともに存在し、抵抗へと反転しうる身体を考察する「ユートピア的身体」と権力への抵抗と権力の解体の可能性を秘めた反ー場所を模索する空間論』アマゾン書籍解説より。
解ったような解らないような説明に行き着いてしまった。
「ヘテロクロニア」はheterochrony か。異時性の訳があった。『表現型多型の研究で重要。系統によって発生の時期がずれることを指している。』固体発生と系統発生の問題であるらいい。『発育の速度とタイミングの変化が、片や遺伝現象と片や自然淘汰の間にきわめて重要な関係をどのように引き起こすか。動物の形はどのように進化するのか。サイズはどのように進化するのか。寿命や幼体期間の長さ等、生活史戦略はどのように進化するのか。』こうした文章を読むと、なにやら三木成夫の研究世界にリンクしていく言葉のようだ。
いずれにしても憶うことは、1970年代の東京芸大、三奇人の存在である。生物学の三木、民族音楽の小泉、身体論体操の野口。それぞれに既成の概念を突き崩し、自然と文化の関係、文化の相対化、知(芸術創造)の未来へ新しい価値観を導入するエネルギーを潜め、“三本の矢”として、学生たち一人一人に大きなインパクトを与えてきた歴史がある。
いや、実に哀しい。いまや「歴史」となってしまっていることが……。
恥ずかしながら、無学を証明するようだが、生きているうちに聞くことができてよかった。
「ヘテロトピア(場)」「ヘテロクロニア(時)」この言葉をキーワードにして、現代的な意味と、未来的な展望について、もう一度、話を伺いたいと思っている。そして管さんの造語だという「セノポイエイセ(シ)ス」についても……。
推敲もせず、誤字脱字も調べずに、記憶が薄れないうちにアップします。
いろいろご指摘ください。
コーディネーターをつとめられた明大教授・管啓次郎さんと近藤早利さんが同級生ということもあって、講座参加の手配をしてくださってあった。
基調講演は、千葉大学教授・広井良典さん。以前、医学書院『看護学雑誌』「越境するケアー交話」で、いちどだけご一緒させていただいたことがあった。
講演では、『人口減少社会という希望』の復習をさせてもらえた。春に読んだ時にはなぜ「鎮守の森」なのかが理解できなかったが、話を伺ううちにローカルが持つ深い意味が多少なりとも解る気がしてきた。
パネルディカッションで、作家の高橋源一郎さんの話は、現実のエピソードを生き生きとした描写を交えて、「弱さとは何か」、そして「希望のもてる場を求める想像力・創造力について」等々、作家ならでは柔らかな語り口で、硬くなりがちな雰囲気に風穴をあけてくれた。
メディア論が専門の長谷川一さんは、岩浪書店が多くの日本人に向けた啓蒙書となる「文庫」や「新書」といった形式をつくりだし、他社も追随してきたことによる「日本の知の有り様の変遷」を語っていたのが印象に残った。この問題だけでも、日本人の民意の質を問う大きなテーマであった。
こうして2時間半、大学、出版、現代の知の代表として専門家の話を聞くことができたが、まとめ役の管さんとしては、なかなかご苦労があったことと推察している。声も表現力も場の雰囲気を盛り上げる力も素晴らしい。テンションは相当に高く、シーンをつくりだし、ステージを用意するための仕掛けをなさっていらした。
その姿に我が師・野口三千三を彷彿としたが、野口を超えるラジカルな発想と言説で「大学の消滅」への危機感を随所に滲ませていおられた。
ここからは、勝手な物言いをお許しいただこう。
まず一点。
「人間を育てるには、私塾、寺子屋しかない!」
もう一点は、基調講演を管さんがなさって、人の価値がクロスする「ヘテロトピア(空間)とヘテロクロニア(時間)」をキーワード・共通言語として、「大学・出版・知の未来」について討論されるのも、もう一つの在り方だったかもしれない、といささかの残念さを感じたこともあった。
この二つのことばについて管さんの話を伺ってみたいと思っている。
今朝になって、とりあえずの行為として二つの言葉をWeb上で検索した。
「ヘテロトピア」は、非現実的な空間である「ユートピア」に対立するもの。『権力による服従とともに存在し、抵抗へと反転しうる身体を考察する「ユートピア的身体」と権力への抵抗と権力の解体の可能性を秘めた反ー場所を模索する空間論』アマゾン書籍解説より。
解ったような解らないような説明に行き着いてしまった。
「ヘテロクロニア」はheterochrony か。異時性の訳があった。『表現型多型の研究で重要。系統によって発生の時期がずれることを指している。』固体発生と系統発生の問題であるらいい。『発育の速度とタイミングの変化が、片や遺伝現象と片や自然淘汰の間にきわめて重要な関係をどのように引き起こすか。動物の形はどのように進化するのか。サイズはどのように進化するのか。寿命や幼体期間の長さ等、生活史戦略はどのように進化するのか。』こうした文章を読むと、なにやら三木成夫の研究世界にリンクしていく言葉のようだ。
いずれにしても憶うことは、1970年代の東京芸大、三奇人の存在である。生物学の三木、民族音楽の小泉、身体論体操の野口。それぞれに既成の概念を突き崩し、自然と文化の関係、文化の相対化、知(芸術創造)の未来へ新しい価値観を導入するエネルギーを潜め、“三本の矢”として、学生たち一人一人に大きなインパクトを与えてきた歴史がある。
いや、実に哀しい。いまや「歴史」となってしまっていることが……。
恥ずかしながら、無学を証明するようだが、生きているうちに聞くことができてよかった。
「ヘテロトピア(場)」「ヘテロクロニア(時)」この言葉をキーワードにして、現代的な意味と、未来的な展望について、もう一度、話を伺いたいと思っている。そして管さんの造語だという「セノポイエイセ(シ)ス」についても……。
推敲もせず、誤字脱字も調べずに、記憶が薄れないうちにアップします。
いろいろご指摘ください。
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