羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

いよいよ今週末『からだとの対話 麿赤兒氏を迎えて』

2014年03月26日 08時20分10秒 | Weblog
 今回の「からだとの対話」の企画がはじまって半年がすぎようとしている。
 いよいよ今週末、3月29日まで残すところ本日をいれて4日となった。
 
 さて、野口三千三先生をお見送りして、早16年。
 十七回忌の今年、16年前と同様な景色に上野・鴬谷は彩られそうだ。
 寒く長い冬、東京も大雪に見舞われた。寒い冬を経た春ほど、桜は美しく咲きほこるらしい。
 野口先生は、30数年通い続けた藝大と博物館の側に眠りたい、と寛永寺に墓地を移された。とはいえお墓は故郷の高崎を向いて建っている。83年の生涯、体操の教師として、その人生を全うされた春は、満開の桜に見守られる。
 終戦間際に上京以来、故郷群馬の地を踏む回数はごく少なかった、と伺ったことがある。
 多くの日本人と同様に、戦争が先生の人生を大きく変えた。
 そのなかで、群馬から職場を移して、大抜擢による東京体育専門学校に籍をおいたことが、その後の半世紀の生き方を決定し、野口体操と呼ばれる独特の体操をつくりあげることにつながった。
 その経緯が、より鮮明な輪郭をもって、今回の「からだとの対話」の準備の段階で気づかせてもらえた。
 今朝の「ごちそうさん」でも取り上げられていたが、GHQのなかに置かれたC・I・E(民間情報教育局)の戦後の文化・教育改革に、占領下にあった日本側渦中の一人として関わったことは、ご自身の意識にはのぼらないところでも非常に大きな影響があっただろう、ことが少しずつ見えてきた。
「終戦間際のことは、時系列もはっきりしないし、ノートも真っ白だった。最初は呆然、しばらくしてからは無我夢中で生きてしまった。気がついたら藝大に通っていたわけ」
 
 今回、没後の16年も含めて、生誕100年の時間軸のなかで、野口体操を改めて見つめ直すキッカケとなった。「からだとの対話」では麿さんを迎えて、1960年代の演劇とのかかわりの一端を伺うことができそうな予感がしている。
 体操が体操だけに終わらず、「ことば」を持った珍しい体操に育ってゆく、ひとつの要因となった筈の演劇界とのかかわり。これからの野口体操の歩む道がなんとなく見えてくるような、これも予感がしている。

 いつもつくっている目安としての「タイムスケジュール」もほぼ固まった。あとは、細部を詰めるだけとなった。
 これまで昨年の夏には演出家の鴻上尚史さん、同じく秋には映画監督の龍村仁さんと「からだとの対話」を行ってきた。毎回、事前のタイムスケジュールは大きく変貌するのだけれど、やはり目安になる時間割はあった方がよいという経験があるのでつくってみた。
 
 お時間がおありの方は、おりしも満開に近い夜桜見物をかねて、新宿までおこしくださいませんか。
 野口三千三十七回忌に、皆様と故人を偲びたいと思っています。
「からだとの対話」は午後6時半から、朝日カルーセンター新宿校にて。
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