昨日、「徹子の部屋」を何気なくみていた。
若者二人がピアノ連弾をしていた。
右側のピアニストの腰は三分の一ほど椅子からはみ出していて、右足がよこに出ている。
「何だろう?!」
二人は「レ・フレール」、名前の通り兄弟であること。お兄さんはバイエル程度でルクセンブルグの音楽学校に入学し、作曲と編曲とピアノを学んできたこと。
弟も兄のあとを追って、ルクセンブルグへ。なんと国立音楽学校ではたった6000円で、一年間、学べるのだそうだ(聞き間違いではないと思う)。
で、両親は音楽とはまったく関係のない仕事だということがわかった。
アップライトピアノすら家にはなかったらしい。
兄が日本に帰国して、一時、ひきこもり状態にあったのを弟が誘い出してデュオを組んだのだという。
元気のいい演奏を繰り広げた。
徹子さんは、ほとんとインタビューではなく、二人のピアノ演奏を聞かせることで、ファンを獲得させてあげる作戦のようだった。
よく見るとピアノの椅子は一人がけだった。
連弾用の椅子だってあるし、一人掛けを二つ並べてもいい。
それをしないわけがあることが次第に理解できる。
つまり一人が立ち上がって後ろから抱きかかえるように弾いたり、立ったり座ったり交互に左右入れ替わったりと、派手なアクションが売りなのである。
とにかく楽しい。四本の手、20本の指が、もつれ合うように絡み合うようにひとつの曲を作り上げていくのだ。そして基本的に即興演奏である。
「ブギウギ」と聞いてカサギシズコを思い出す人はかなりの年配だが、この二人の若者はこのリズムにピタッとはまる。
そうこうするうちに私はかつて見た映画のワン・シーンを重ねていた。
それは『海の上のピアニスト』である。
有名なジャズピアニストが船に乗り込んできて、どちらが上か挑戦する場面だ。挑戦者におどおどしながらも、凄い演奏を披露する主人公。そのときに手が4本20本の指で弾いているマジックシーンだった。
音楽もこの映画に重なる古きよき時代のブギウギだ。
『海の上のピアニスト』は、怖れをなしてニューヨークに降り立つことは出来なかった。しかしこの二人は、船の上から降り立って、見事に演奏をしてみせるのである。
「海の上の二人のピアニスト」という物語が出来そうな兄弟である。
自由奔放そうでありながら、なんとなくお手本がある。音楽をほんとうに楽しむことができるヨーロッパの香りなのだ。ルクセンブルグに行ったことがよかったかもしれない。いや、よかったのだ。
私は、ある若者を思い出した。
両親共に音楽家で、幼少のころから厳格なピアノのレッスンを続け、アメリカの名門音楽大学に留学したものの、ピアニストにも作曲家にもなれなかった。母は、そのときの為替相場を見ていて、円建てにしたりドル建てにしたりして送金していると聞いたこともあった。あぁ~、それなのに。
「そんなんじゃダメだ。才能がない」
とことん両親から叱咤激励を受けながらも、音楽の専門教育をみっちり受けたことが、音楽を彼から奪ってしまったとはいえないが……。
レ・フレールの二人は、演奏とは裏腹の苦労をしているだろう。血のにじむような努力や、失意を乗り越えてきているに違いない。
人は生きなければならない。
これしかない道で、食べていかなければならない。
創意工夫で、自分たちの音楽を示すことで生きるしかない。
退路を断ったそこから這い上がってくるのは並大抵ではなかったはずだ。
こうしたピアノデュオを認めない人もいるだろう。そんなのは曲芸だ、見世物だ、単なるお楽しみだと。二人で一人前か。ソロでもあのくらいの演奏は出来るのが、ピアニストだ、と。
「出来るものならやってみろ!」といってやりたい。
「いいじゃないの! 二人だって。楽しい音楽は人を元気にしてくれる」
石にかじりついても、這い上がってくればいい。
彼らよりもはるかに音楽的に恵まれていたから、音楽を続けられなくなるというのは悲しいねぇ。
価値は多様であっていい。
もし、野口三千三先生がご存命で、レ・フレールの二人の若者の演奏を見て聞いていたら、きっと応援しただろうと私は勝手に思っている。
日本は、音楽でも大きく変わった。
東京には多様な音楽がある。流行の変化はめまぐるしい。
若い二人がどこまで踏ん張っていけるのか、祈る気持ちがあふれてきた。
若者二人がピアノ連弾をしていた。
右側のピアニストの腰は三分の一ほど椅子からはみ出していて、右足がよこに出ている。
「何だろう?!」
二人は「レ・フレール」、名前の通り兄弟であること。お兄さんはバイエル程度でルクセンブルグの音楽学校に入学し、作曲と編曲とピアノを学んできたこと。
弟も兄のあとを追って、ルクセンブルグへ。なんと国立音楽学校ではたった6000円で、一年間、学べるのだそうだ(聞き間違いではないと思う)。
で、両親は音楽とはまったく関係のない仕事だということがわかった。
アップライトピアノすら家にはなかったらしい。
兄が日本に帰国して、一時、ひきこもり状態にあったのを弟が誘い出してデュオを組んだのだという。
元気のいい演奏を繰り広げた。
徹子さんは、ほとんとインタビューではなく、二人のピアノ演奏を聞かせることで、ファンを獲得させてあげる作戦のようだった。
よく見るとピアノの椅子は一人がけだった。
連弾用の椅子だってあるし、一人掛けを二つ並べてもいい。
それをしないわけがあることが次第に理解できる。
つまり一人が立ち上がって後ろから抱きかかえるように弾いたり、立ったり座ったり交互に左右入れ替わったりと、派手なアクションが売りなのである。
とにかく楽しい。四本の手、20本の指が、もつれ合うように絡み合うようにひとつの曲を作り上げていくのだ。そして基本的に即興演奏である。
「ブギウギ」と聞いてカサギシズコを思い出す人はかなりの年配だが、この二人の若者はこのリズムにピタッとはまる。
そうこうするうちに私はかつて見た映画のワン・シーンを重ねていた。
それは『海の上のピアニスト』である。
有名なジャズピアニストが船に乗り込んできて、どちらが上か挑戦する場面だ。挑戦者におどおどしながらも、凄い演奏を披露する主人公。そのときに手が4本20本の指で弾いているマジックシーンだった。
音楽もこの映画に重なる古きよき時代のブギウギだ。
『海の上のピアニスト』は、怖れをなしてニューヨークに降り立つことは出来なかった。しかしこの二人は、船の上から降り立って、見事に演奏をしてみせるのである。
「海の上の二人のピアニスト」という物語が出来そうな兄弟である。
自由奔放そうでありながら、なんとなくお手本がある。音楽をほんとうに楽しむことができるヨーロッパの香りなのだ。ルクセンブルグに行ったことがよかったかもしれない。いや、よかったのだ。
私は、ある若者を思い出した。
両親共に音楽家で、幼少のころから厳格なピアノのレッスンを続け、アメリカの名門音楽大学に留学したものの、ピアニストにも作曲家にもなれなかった。母は、そのときの為替相場を見ていて、円建てにしたりドル建てにしたりして送金していると聞いたこともあった。あぁ~、それなのに。
「そんなんじゃダメだ。才能がない」
とことん両親から叱咤激励を受けながらも、音楽の専門教育をみっちり受けたことが、音楽を彼から奪ってしまったとはいえないが……。
レ・フレールの二人は、演奏とは裏腹の苦労をしているだろう。血のにじむような努力や、失意を乗り越えてきているに違いない。
人は生きなければならない。
これしかない道で、食べていかなければならない。
創意工夫で、自分たちの音楽を示すことで生きるしかない。
退路を断ったそこから這い上がってくるのは並大抵ではなかったはずだ。
こうしたピアノデュオを認めない人もいるだろう。そんなのは曲芸だ、見世物だ、単なるお楽しみだと。二人で一人前か。ソロでもあのくらいの演奏は出来るのが、ピアニストだ、と。
「出来るものならやってみろ!」といってやりたい。
「いいじゃないの! 二人だって。楽しい音楽は人を元気にしてくれる」
石にかじりついても、這い上がってくればいい。
彼らよりもはるかに音楽的に恵まれていたから、音楽を続けられなくなるというのは悲しいねぇ。
価値は多様であっていい。
もし、野口三千三先生がご存命で、レ・フレールの二人の若者の演奏を見て聞いていたら、きっと応援しただろうと私は勝手に思っている。
日本は、音楽でも大きく変わった。
東京には多様な音楽がある。流行の変化はめまぐるしい。
若い二人がどこまで踏ん張っていけるのか、祈る気持ちがあふれてきた。
カッコよかったです。
かめいどさん。