羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

政治音痴・外交音痴じゃすまされない

2010年11月19日 09時00分50秒 | Weblog
 昨日、外出準備を終えて、階下におりた時のこと。
 見てもいないテレビが、母のそばでガンガン鳴っている。
 国会中継らしいが、なにやら騒々しいやり取りに、しばらく見ていると、仙谷官房長が‘暴力装置’と発言するのを耳にした。
「まずいじゃない。またまた失言……」
 政治音痴の私でさえ‘とんでもないよな~この言葉’と思った。
 すぐさま取り消し、謝罪するところまで見て家を出た。
 再びの失言。何んと?ムムムッ、言葉が耳に残って、道々、菅内閣もそろそろ店じまいかな~!とつぶやいた。

 午後、授業を終えて帰宅。夕食後に日経の夕刊を開いた。
 真ん中には憮然とした表情の仙谷さんのお写真。その周りに人脈図が載っている。
《チーム仙谷 フル回転》【永田町インサイド】の記事に目が引き寄せられた。
 首相を越えた人数を従え厚みのある人脈チームであることが明々白々。
 
「仙谷さん、鳩山総理に話を残して、最後の発言してください」
 去る4月に内閣府会議室で聞いた「新しい公共」のシンポジウムで、仙谷氏と当時の総理鳩山氏に、二人に閉めの言葉を求める司会者の発言からしても、その後「影の総理」と呼ばれるようになることが十分に察せられる一場面だった。
 あの時の仙谷氏は大番頭って印象だったが、今は違う。掲載されている写真が顕しているように、しっかり次を睨んでいるなって感じだ。

 いやはや、日本はどこに向かうのか。
 こうなると、‘政治音痴’に甘んじてはいけないかも。混迷の時代を生きる知恵を身につけねば、と思いつつ新聞上の視野を横にずらす。
 そのとき《地図で読む 地政学-3-》が目に入った。
 そして、一行目に目は釘付けになった。
『英語併記のベトナム地図には「South China Sea」(南シナ海)という言葉はない。中国に1000年にわたって支配された歴史とカンボジア内戦に絡んだ1979年の「懲罰攻撃」の記憶が、ベトナム人の心に刻まれているためだ』
 なるほど。地図の上からも歴史と民族の恨みを読み取ることが出来るのか。
【南シナ海を巡る領土問題】
 キャプションがついた地図が、記事には添えられていた。(ハノイ=岩本陽一)とある署名記事だった。
 
 外交音痴などと言ってはいられない現実が、地図から伝わってくる。

 日経新聞 2010年11月18日(木)【政界】を読む。 
 
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政治音痴 (noga)
2010-12-27 22:16:01
日本人には意思がない。
だから、意思の内容を表明できない。
意思の内容によって個人を選ぶことができない。
だから、個人を選出しても、それが意思決定につながることはない。
個人を選ぶことが、個人の意思を選ぶことだとは夢にも考えていない。

首長選びの段階で、集団の意思決定はすでに終わっているとの考えがない。
首長を選んだ後で、また個人・個人があれこれと首長とは違った内容の言い合いをする。
意思決定を行うことを周囲から容認されない首長は、問題の先送りと積み残しをして時間を稼ぐ。

カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本・権力構造> (The Enigma of Japanese Power) の<世界にあって世界に属さず>の中で日本の交渉能力について下記の段落のように述べています。

アメリカ政府はとくに、中曽根を含む日本の歴代首相との交渉を通し、日本の場合には、政府の公式首長であれ他の誰であれ、実効性のある交渉は不可能だと気づかされた。他の多くの国も今世紀を通して分かったのは、日本の交渉者とは実質的な交渉はできないということだった。日本の交渉者が交渉不能なのは、交渉者のどんな言葉に対しても本国で反対される可能性がつねに存在するためだ。この難しさが、日本に対する戦前の欧米諸国の態度を大方決めたのだった。ある日本外交史の専門家が要約するように・・・・・
戦前の日本ほど、国際的信頼を得たいという強迫観念にかられながら、世界中から信頼されなかった国はない。交渉の失敗を考えることすらこわがっていたにもかかわらず、日本の指導者も交渉者も交渉は最小限にとどめたし、考えもこり固まっていたので、非難されることは必然的だった。・・・・・交渉という交渉で、指導者も外交官もあやまちをくり返すまいと意識して努力したにもかかわらず、結果は何度も何度も同じ落とし穴に落ち込んでしまうのだった。(引用終り)

人・人により主張は違う。個人が定まっていなければ、決定された話の筋も通らないのだが、その点の整合性のなさは誰もが心配していない。
これは、大きな鍋に大勢の調理人がそれぞれに調味料を投げ込んでいる状態で、出来上がった料理の味に責任を持てる者はいない。
だが、この成り行きは当然のことで、日本人にはどうしようもないことだと受け取られている。
これは、律儀な日本人のだらしなさである。

意思 (will) は未来時制の内容である。
日本語には時制 (tense) がないので、未来時制もない。
それで、日本人には意思がない。

だが、日本人には恣意 (self-will) がある。
これは、言語の不自由な子供やアニマルと同じ状態である。
恣意は、私意・わがまま・身がってとも言われている。
昨今問題を起こした鳩山首相の'トラスト・ミー' (Trust me.) は英語で考えれば約束の履行を宣言したことになるが、日本語で考えれば「俺に任せろ」で、恣意の自由を宣言したことに他ならない。
こうした深刻な行き違いが起こるから、外交官は英語のできる人でなければならない。
日本語ではこうなるのだからと通訳のような考え方をしていたのでは国際社会で路頭に迷うばかりである。

日本人は元来多神教で、その神様たちは出雲に出向いて談合している。
だが、彼らも自己の意思を示すことはない。
唯一の神を選び、その意思の内容を尊重する一神教徒のまねごとも、昔ながらの日本人には難しいのかもしれない。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812  

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