羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

トリアージ(Triage)判断は難しい!

2011年04月27日 18時45分54秒 | Weblog
 大震災以後、じっと我慢してきたが、復興と原発事故に対する菅総理の対応に怒りに近いものを感じている。しかし、その怒りの感情が、いまひとつ地に足がつかない状態で生まれてきているような気がしてならない。
 思考も感情も本当は停止状態にあって、余震の揺さぶりになかで船酔い状態が続いているように思えてならない。
 
 それでも何とか地に足をつけたい、とばかりに今日は私にとってのトリアージについて考えてみた。
 もし、避難しなければならない状態に陥ったとき、持ち出し用のリュックやバッグが、あまりにも重いことに気づいたからだった。
 これでは逃げ出せない。
「時間が経つと、だんだん物が増えて、欲を背負うようになるのね」
 様子を見ていた母がつぶやいた。
 詰め込んでいる時には、感じなかった。これも必要、あれも必要、というものが、日々、増えていくのである。
 優先順位を付ける行為をトリアージ(Triage)と言うらしい。あらゆる局面で、下さなければならない大事な判断である。 理屈では分かっているつもりだった。ところがしばらくの間、この優先順位が付けられない状態にあることに気づいた。

 先日、いつも仏壇に手をあわせてくれる人が訪ねてきた。いつも通り線香を炊いてはたと気づいた、という。
「位牌と本尊がいない」
 震災直後、母が持ち出すために片付けようと言い出した。そこで父の位牌と阿弥陀仏を丁寧にくるんで、二つがぴったり入る箱に納めた。
 しばらくして仏壇に戻そうとしたとき、母がまた言う。
「まだ、そのままにしておいて」
 箱を開けて中を見ると、あまりにも見事に包装してある。我ながらうまく出来ていると感心しながら、未だにその状態で低いところに置いてある。
「早く戻しなさいよ。手を合わせようとしてびっくりしちゃった」客人は母に促していた。
 しかし、まだそのままの状態をキープしている。

 今は有事だ。その自覚があっても、自分にとって大事なもののトリアージをつける判断ほど難しいことはない。今回の大震災で思うのだが、やはり東京は被災地ではない、という幸運のなかで暮らしているようだ。
 ギリギリに追いつめられたら、きっとその時は、これだ!という一つに気づくのだろうか。いったい何を、最初に取り上げるだろう。
 いずれにしても戦時中のように「左右に二つのバックを交叉して振り分けるのよ」と教えられた。そこで同じくらいの重さのバックを試してみると、実に軽いのだ。つまり、ビデオカメラバックにつめたものでは重すぎる事だけはよーく理解できた。
 
「命あっての物種」だ。
 現実は、トリアージするどころか、まだまだ捨てきれない物の前で手を拱いている私。
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