あの日は、雲が低く垂れれていて、今にも大きな雨粒が落ちきてもおかしくない天候だった。
「地球交響曲」第三番を映画館で見て、私鉄駅のホームに立った時だ。そのホームは地面とそれほど高さの違いがなく、柵がなければそのまま歩いて町に出て行くことは容易い。その場所は駅から少し奥まった飲屋街のようだった。細い路地を、風が抜けていく。もの哀しげな気配が漂っている。時間的に開店にはまだ少しの余裕がある。
さらに肌寒い風がホームを吹き抜ける。首を少し縮めた後、私は、心を立て直して真っ直ぐ目の前を向く。
すると目のなかに真っ赤な提灯が先ほどの風の揺れをまだ余韻のように残している姿が入ってきた。大きな提灯は、低いところにあったが、あと2時間もしないうちに軒下にしっかり吊るされるのだろう、などど思いながら電車を待つ時間をやり過ごしていた。
「何ともやりきれない。この悲しさは……」
丁度、その頃、野口先生は、秋から冬、そして菜種梅雨が始まる頃まで、おろらく気管支炎ではないか、と思われる咳と発熱が、毎年のように繰り返されていた。
早朝、電話がかかる。やっとの力を振り絞って、か細い声で緊急を知られてくる。すると私は始発電車に飛び乗って、西巣鴨のご自宅まで向かうのが常だった。
大事に至らないこともあったが、入院することもあった。
ただ、通う回数が増えるほどに、道々「先取りの悲嘆」にくれることが多くなっていった。
這うようにして玄関にたどり着いた先生が、鍵を開けているはず。その玄関の戸を開ける前に、必ず涙を拭って、できるだけ平静を保って部屋に入っていった。
そうした状況のなかで「地球交響曲」第三番を見たのだ。
出演を予定されていて、撮影に入るその直前に、写真家の星野道夫さんを熊によって失っていた。そうした経緯からか、映画のテーマは「死」と「魂」が縦軸となっていた。残された遺児の笑い顔・泣き顔が、痛ましくけなげで、それだけで哀しみが倍増していった。
座席に腰をかけていることがいたたまれなかった私には、ホームからみた真っ赤な大きな提灯が、現実に引き戻してくれた。夜になれば、あの提灯に誘われて、勤め帰りおじさんたちが立ち寄る。一杯のお酒で、いや二杯のお酒で、ときにやめられないほどの酒量で、疲れを癒し、憂さを晴らしていくのだろうなぁ~。
「それも現実だ!」
さて、昨日は、明治大学シェイクスピアプロジェクトで野口体操を指導する初日だった。
帰宅したのは1時少し前だった。そそくさと昼食をすませ、この第三番のDVDを再生した。
「やっぱり、何も見ていなかった」
一番、二番よりももっと新鮮に感じられるのだった。
「悲しみは、人を盲目にする」
あの頃の私は、常に、曇りガラスのこちら側から、あちら側を見ていたのだ、と気づく。
龍村監督の「地球交響曲」の通奏低音は、「自然とテクノロジーの調和」だ。
今になって見直してみると、とりわけこの第三番は、グロバリゼーションとローカリゼーションの微妙な関係を描いた作品としての意味が、当時よりも深まったと思う。
たしかに、歴史の断面を無作為に切り取ってみると、どの断面であっても巨大な文明に押しつぶされる文化の姿が顕在している。規模こそまちまちに異なるが、文明におされて死語となった言葉があるし、それにつれて失われた文化は、数えきれないほどだろう。(幸いにして日本語はまだ生きている。フランス語を話す人口よりも日本語を話す数の方が、いまのところ多いという。しかし、それとて何時までのことだろうか。)
さて、星野道夫が心寄せた人々は、今、どのような暮らしぶりなのだろうか。
彼らが守ろうとした「魂のよりどころ」は、今は、どのような状態にあるのだろうか。
当時、自然を守ることがそのまま“文化の魂・神話の世界”を守り抜くことだった。
そのなかで命を捧げたひとりの日本人は、本当のグローバル(地球)を生きた命そのものだったことに、今更ながら驚きを覚える。
ガイアの命を生き、そして命を熊に捧げた写真家の死が意味するところは、とても深かった。
自然とテクノロジーの調和の道を探る。このことは、21世紀の今となっては、グローバリゼーションとローカリゼーションの関係を見直すことになる。それぞれの民族が悠久の時間のなかで育んできた「魂の依り処」を失わないための見直しでもある。
こうした意識を覚醒させてくれるのが、この第三番だった。
一度、失われた言葉や文化を再生させることは非常に難しい。
生命がその内側に雌雄を得たことが、「死」を生み出した。個人に死があるように、種にも絶滅という宿命が負わされた。だから私たちは、神話を語り、歴史を語り、日常の文化を大切にしてきたに違いない。
グローバリゼーションに呑み込まれないしたたかな文化継承は、どうしたら可能なのだろう。
この二つの道に調和という可能性が残されているのだろうか。
つくづく思う。
酷暑の午後、座敷に座してひとり映画を見直す時間をもらえたのは、何か、大いなる力が働いたようにしか思えない。
「地球交響曲」第三番を映画館で見て、私鉄駅のホームに立った時だ。そのホームは地面とそれほど高さの違いがなく、柵がなければそのまま歩いて町に出て行くことは容易い。その場所は駅から少し奥まった飲屋街のようだった。細い路地を、風が抜けていく。もの哀しげな気配が漂っている。時間的に開店にはまだ少しの余裕がある。
さらに肌寒い風がホームを吹き抜ける。首を少し縮めた後、私は、心を立て直して真っ直ぐ目の前を向く。
すると目のなかに真っ赤な提灯が先ほどの風の揺れをまだ余韻のように残している姿が入ってきた。大きな提灯は、低いところにあったが、あと2時間もしないうちに軒下にしっかり吊るされるのだろう、などど思いながら電車を待つ時間をやり過ごしていた。
「何ともやりきれない。この悲しさは……」
丁度、その頃、野口先生は、秋から冬、そして菜種梅雨が始まる頃まで、おろらく気管支炎ではないか、と思われる咳と発熱が、毎年のように繰り返されていた。
早朝、電話がかかる。やっとの力を振り絞って、か細い声で緊急を知られてくる。すると私は始発電車に飛び乗って、西巣鴨のご自宅まで向かうのが常だった。
大事に至らないこともあったが、入院することもあった。
ただ、通う回数が増えるほどに、道々「先取りの悲嘆」にくれることが多くなっていった。
這うようにして玄関にたどり着いた先生が、鍵を開けているはず。その玄関の戸を開ける前に、必ず涙を拭って、できるだけ平静を保って部屋に入っていった。
そうした状況のなかで「地球交響曲」第三番を見たのだ。
出演を予定されていて、撮影に入るその直前に、写真家の星野道夫さんを熊によって失っていた。そうした経緯からか、映画のテーマは「死」と「魂」が縦軸となっていた。残された遺児の笑い顔・泣き顔が、痛ましくけなげで、それだけで哀しみが倍増していった。
座席に腰をかけていることがいたたまれなかった私には、ホームからみた真っ赤な大きな提灯が、現実に引き戻してくれた。夜になれば、あの提灯に誘われて、勤め帰りおじさんたちが立ち寄る。一杯のお酒で、いや二杯のお酒で、ときにやめられないほどの酒量で、疲れを癒し、憂さを晴らしていくのだろうなぁ~。
「それも現実だ!」
さて、昨日は、明治大学シェイクスピアプロジェクトで野口体操を指導する初日だった。
帰宅したのは1時少し前だった。そそくさと昼食をすませ、この第三番のDVDを再生した。
「やっぱり、何も見ていなかった」
一番、二番よりももっと新鮮に感じられるのだった。
「悲しみは、人を盲目にする」
あの頃の私は、常に、曇りガラスのこちら側から、あちら側を見ていたのだ、と気づく。
龍村監督の「地球交響曲」の通奏低音は、「自然とテクノロジーの調和」だ。
今になって見直してみると、とりわけこの第三番は、グロバリゼーションとローカリゼーションの微妙な関係を描いた作品としての意味が、当時よりも深まったと思う。
たしかに、歴史の断面を無作為に切り取ってみると、どの断面であっても巨大な文明に押しつぶされる文化の姿が顕在している。規模こそまちまちに異なるが、文明におされて死語となった言葉があるし、それにつれて失われた文化は、数えきれないほどだろう。(幸いにして日本語はまだ生きている。フランス語を話す人口よりも日本語を話す数の方が、いまのところ多いという。しかし、それとて何時までのことだろうか。)
さて、星野道夫が心寄せた人々は、今、どのような暮らしぶりなのだろうか。
彼らが守ろうとした「魂のよりどころ」は、今は、どのような状態にあるのだろうか。
当時、自然を守ることがそのまま“文化の魂・神話の世界”を守り抜くことだった。
そのなかで命を捧げたひとりの日本人は、本当のグローバル(地球)を生きた命そのものだったことに、今更ながら驚きを覚える。
ガイアの命を生き、そして命を熊に捧げた写真家の死が意味するところは、とても深かった。
自然とテクノロジーの調和の道を探る。このことは、21世紀の今となっては、グローバリゼーションとローカリゼーションの関係を見直すことになる。それぞれの民族が悠久の時間のなかで育んできた「魂の依り処」を失わないための見直しでもある。
こうした意識を覚醒させてくれるのが、この第三番だった。
一度、失われた言葉や文化を再生させることは非常に難しい。
生命がその内側に雌雄を得たことが、「死」を生み出した。個人に死があるように、種にも絶滅という宿命が負わされた。だから私たちは、神話を語り、歴史を語り、日常の文化を大切にしてきたに違いない。
グローバリゼーションに呑み込まれないしたたかな文化継承は、どうしたら可能なのだろう。
この二つの道に調和という可能性が残されているのだろうか。
つくづく思う。
酷暑の午後、座敷に座してひとり映画を見直す時間をもらえたのは、何か、大いなる力が働いたようにしか思えない。
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