かれこれ六年前の夏。それまで一編たりとも読んだことがなかった五木寛之作品を年代順に一気に読んだ。
その後もしばらく新刊本が出されるたびに読み加えていった。
最近は無沙汰をしていたが、久しぶりに『親鸞』を読み終えたのは昨晩のこと。
「あぁ、ここはあの場面の雰囲気だ」と以前読んだ小説やエッセーに重なって「あの作品はここに辿りつくためのデッサンだったのだ」と思ったりした。それは懐かしさに似た情を呼び起される快感だった。
幼名‘忠範’から出家となって‘範宴、綽空、善信’として悩み流離い、そしてついに親鸞に到達するまでの青年期を描いた物語を読むにつれて、作者である五木氏の青春と重ねている自分がいた。
それはあたかも‘胡蝶の夢’のように‘作者が親鸞か・親鸞が作者なのか’、渾然一体の感覚に浸ることができる面白い読書だった。
文字を追いつつ‘語り部’の言葉を聴く時空を、私は生きているのだ。
実はこれまで読んだ膨大な量の五木作品には、ある種、切なさに胸の痞えを覚えていた。
「もう一歩のところでなぜ立ち止まるのか。そこを超えて書いておしまいなさい」
しかし、その一線を越えると、作者でありつつけることが出来なくなる危うさを、常に感じていた。
ところが『親鸞』にはそれがない。苦行を乗り越えたような印象がある。
<生意気なことを言っている>と自覚しつつ、次に越後に流されてからの親鸞の生き様を読ませてもらいたい、とおねだりしながら、魂が揺さぶられ熱い思いが沸々と湧きあがってくるのを感じる。
その後もしばらく新刊本が出されるたびに読み加えていった。
最近は無沙汰をしていたが、久しぶりに『親鸞』を読み終えたのは昨晩のこと。
「あぁ、ここはあの場面の雰囲気だ」と以前読んだ小説やエッセーに重なって「あの作品はここに辿りつくためのデッサンだったのだ」と思ったりした。それは懐かしさに似た情を呼び起される快感だった。
幼名‘忠範’から出家となって‘範宴、綽空、善信’として悩み流離い、そしてついに親鸞に到達するまでの青年期を描いた物語を読むにつれて、作者である五木氏の青春と重ねている自分がいた。
それはあたかも‘胡蝶の夢’のように‘作者が親鸞か・親鸞が作者なのか’、渾然一体の感覚に浸ることができる面白い読書だった。
文字を追いつつ‘語り部’の言葉を聴く時空を、私は生きているのだ。
実はこれまで読んだ膨大な量の五木作品には、ある種、切なさに胸の痞えを覚えていた。
「もう一歩のところでなぜ立ち止まるのか。そこを超えて書いておしまいなさい」
しかし、その一線を越えると、作者でありつつけることが出来なくなる危うさを、常に感じていた。
ところが『親鸞』にはそれがない。苦行を乗り越えたような印象がある。
<生意気なことを言っている>と自覚しつつ、次に越後に流されてからの親鸞の生き様を読ませてもらいたい、とおねだりしながら、魂が揺さぶられ熱い思いが沸々と湧きあがってくるのを感じる。
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