羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

フェアユース

2009年03月31日 19時29分17秒 | Weblog
 グーグルが複数の図書館と提携して、七百万冊以上の蔵書をデータベース化し、ネット上で、読めるようにするサービスを始めたらしい。
 同社は公正な利用‘フェアユース’と主張している。
 フェアユースとは、「公益性の高い事業や、著作権者の利益を損ねない利用について、権利者に許可を取らなくてもよい規定である」という。
 日本でも文化庁が四月から一年かけて「日本版フェアユース」導入を論議する、と日経新聞連載「せめぎあう著作権」4回目の最終回の記事に書かれていた。

「米国でも社会的に有用というだけではフェアユースは認められない。だが、作品は利用されて収益を生み作者に利益が還元されて新たな作品が生まれる。日本の著作権ルールは、保護と利用のバランスをどう取るのかの課題に直面している」
 連載はそう締めくくられていた。

 父が亡くなったときの相続手続きで、著作権は特許と共に遺産相続の対象となることを初めて知った。書類の項目に記すところがあったからだ。
 迂闊なことに、その書類を目にするまで、著作権は‘著作権継承者’として、出版社に誰かを伝えるだけでよいのかと思っていた。←(笑わないでください)
 
 で、この著作権を、死後50年から70年に延長しようという動きもある。
 孫子の代までそうする必要が果たしてあるのだろうか、と素人は思ってしまう。よくわからないのが正直なところだ。フランス近代音楽の楽譜は、音大生のころたった2・3ページで○千円というものがあった。著作権の関係で、日本では出版できない作曲家の作品だった。高い楽譜は学生にとって、もの凄く負担になっていたことは事実だ。
 その頃は、ようやくコピー機が出始めた。しかし、印刷は美しくなく読みにくいものだった。
 したがって、当時、楽譜を買い求めるか、先生や友人が持っている楽譜を借りて、自分の手で写譜するしか手立てはない時代だった。
 現在、無断コピーは禁止されているとしても、現実には相当コピーされて使いまわされているに違いない。

 さて、作者を守る、出版社を守る、書店等々を守る、そういったことは大切だと思う。
 しかし、IT化の波が‘津波’となって世界を飲み込んでいく時代に、どこまで著作権を守り通すことが出来るのだろうか。

 確かに携帯やパソコンで本が読めると、本は売れなくなるに違いない。
 しかし、本当に読みたい本は、手元にもって読む‘本’でなければ読みにくい。
 やっぱり本を買う人は買う。

 いい例が、iPhoneだ。これで音楽を本当に聴けるのか、と問われれば‘NO’と私は答える。
 あくまでもiPhoneは携帯して聴く以上の何ものでもない。便利な優れものに違いないが、それだけのことだ、と使ってみて実感している。だからダメだ、ということではない。これにはこれの良さがある。
 もう一つくわえれば、iTunesで手にはいる音楽は偏っているし、欲しいものがないことが多い。
 当然のこと、本と同様に‘誰それの演奏’で‘あの曲’が聴きたいと思えば、楽器店に出向いて購入することになる。

 最初のグーグルの問題に戻せば、作家でない私は、内田樹氏の考えに近い。
「本を書くのは一人でも多くの人に読んでもらいたいから。ネットは自著に触れてもらういいきっかけになる」
 日経新聞‘せめぎあう著作権’②。
 
 しかし、その人の立場によって、この問題の落としどころは、相当に違ってくるだろう。
 このことに限らず、バーチャルなネットの世界は、もう後戻りできないところに問題の核心はある、と思っている。
 多くの人が現代の文明開化・黒船来航の時代に否応なしに遭遇し逃れられないことだけは確かだ。
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